ルソー「エミール」

ルソー「エミール上」岩波文庫を再読。


「わたしたちがほんとうに研究しなければならないのは人間の条件の研究である。わたしたちのなかで、人生のよいこと悪いことにもっとも耐えられる者こそ、もっともよく教育された者だとわたしは考える。だからほんとうの教育とは、教訓を与えることではなく、訓練させることにある。」32項

「悪はすべて弱さから生まれる。子どもが悪くなるのは、その子が弱いからにほかならない。強くすれば善良になる。なんでもできる者はけっして悪いことはしない。」81項

こんなに単純ではないと思いますが、わかるような気もします。たしかに弱さが悪い行動の原因になることもあると思います。弱いと不幸がたくさんある。


「ひとたび原則がわかれば、わたしたちはどこで自然の道にはずれたかをはっきり知ることができる。そこで、自然の道にとどまるにはどうしなければならないかを見ることにしよう。
 子どもはよけいな力をもっているどころではない。自然がもとめることをみたすのに十分な力さえもたないのだ。だから、自然によってあたえられたすべての力、子どもが濫用することのできない力を、十分をもちいらせなければならない。第一の格率
 肉体的な必要に属するあらゆることで、子どもを助け、知性においても力においても子どもに欠けているものをおぎなってやらなければならない。第二の格率。
 子どもの助けてやるばあいには、じっさいに必要なことだけにかぎって、気まぐれや、理由のない欲望にたいしてはなにもあたえないようにすること。気まぐれは自然から生ずるものではないから、人がそれを生じさせないかぎり、子どもがそれになやまされることはないのだ。第三の格率。
 子どものことばと身ぶりを注意ぶかく研究して、いつわることのできない年齢のある子どものうちに、直接に自然から生ずるものと憶見から生じるものを見わけなければならない。第四の格率。
 これらの規則の精神は、子どもにほんとうの自由をあたえ、支配力をあたえず、できるだけものごとを自分でさせ、他人になにかもとめないようにさせることにある。こうすればはやくから欲望を自分の力の限度にとどめることにならされ、自分の力では得られないものの欠乏を感じなくてもすむようになる。」83項


「じつのところ、けがをしたばあい、苦しみをあたえるのは、その傷であるよりも、むしろ恐れなのだ。」98項

「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいのか。」101項

「人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ」102項

「子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうことなく死んでいくことにならないようにするがいい」102項

「ただ生きることだけを願っている人は、だれでも幸福に生きることができよう。したがってその人は善良な人として生きるだろう。悪人になることがかれにとってどんな利益があるのか。」107項

ソクラテスように「善く生きろ」とは言わないんですね。でも、ソクラテスもルソーも両方ともわかるような気がします。それに同じことかもしれないです。「善く」の意味が何だったか。

「ああ、人間よ、きみの存在をきみの内部にとじこめるのだ。そうすればきみは不幸ではなくなるだろう。自然が万物の鎖のなかできみにあたえている地位にとどまるのだ。なにものもきみをそこから抜けださせはしないだろう。必然のきびしい掟に反抗してはならない。必然に逆らおうとして、天からあたえられた力をつかいはたしてはいけない。天はその力を、きみの存在を拡大するためにあたえたのではなく、ただ天が欲するがままに、また欲する限りにおいて、きみの存在を維持するためにあたえているのだ。きみの自由、きみの能力は、きみの自然の力の限度において発揮されるもので、それ以上におよぶものではない。」110項


思考の跡

ソクラテスって「善く生きろ」とはたぶん言わないですよね。
「よく生きる」だったかな。ほとんど読んでないからルソーがおすすめの「国家」は今度こそ読んでみようかなと思います。

「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなくて、善く生きるということなのだ」『クリトン』

アドラー心理学入門』岸見一郎
によると、
ギリシア語でいう「善」は「ためになる」という意味らしい。
逆に「悪」は「ためにならない」という意味になるらしい。
こう考えると、「善く生きる」は人によって変わってくるから、
ルソーの話は、ルソーの「よく生きる」とはどういうことかという話ですね。