教育力の復権へ

創造的人間―宗教・価値・至高経験

創造的人間―宗教・価値・至高経験

最近、「教育力の復権へ 内なる「精神性」の輝きを」という教育提言を読みました。母校の創立者池田大作先生の提言で、そこでの問題提起に、自分なりに答えるための一歩として「創造的人間」を読んでみました。欲求の段階説で有名な人の本。思ったのは、やはり目的が大事であるということです。目的から目を逸らせちゃだめだよと。
教育の第一義的課題として
「教育は、その人がそのなりうる最善のものとなり、その人が潜在的に深く蔵している本質を、現実にあらわすのを助けるべきである」(『創造的人間』)


教育提言についてメモ。

ここでいう「精神性」というのは、具体的には、共感性、想像性、創造性、憐憫や愛、勇気といった心に可能性としてある善き性質のことだと思います。それを育てるという問題。

提言は、二十一世紀は「教育の世紀」にという思いからされた前の提言の振り返りからはじまる。
それは、教育を手段視し続けてきた日本に対する警鐘の意味を込めて、
「社会のための教育」から「教育のための社会」への転換を呼びかけたものでした。子どもたちの幸福という原点に立ち返って教育を回復させることが急務であるといえる。

そして、以下の話題について論じられている。

・「いじめ」や「暴力」をなくす挑戦を
創価教育学体系に込めた「悲願」
・善に関する言葉の堕落が深刻化

・悪を助長する「無関心」と「シニシズム冷笑主義)」
「そして、私が特に強調しておきたいのは、悪に対する無関心、シニシズムは、時に悪そのものよりも恐ろしい、社会の根の部分から蝕んでいく病根であるということです。」
「敵を恐れるな、最悪の場合でも敵は汝を殺すくらいだろう。友人を恐れるな、最悪の場合でも、友人は汝を裏切るぐらいだろう。無関心なやからを恐れよ、やつらは、汝を殺しもしないし、裏切りもしないが、やつらの沈黙の合意のせいで、地上には裏切りと、殺人が存在するのだ」(『若者たちの告白』岩原紘子訳、新読社)


・「善」と「悪」とは可変的な実在
・「自我=エゴ」と「自己=セルフ」
仏教の「善悪不ニ」「善悪無記」やユングの「自己=セルフ」の話。
「真実の「自己」とは(カール・ユングが、意識の表層次元の「自我=エゴ」と深層次元の「自己=セルフ」を立てわけたように)、「他者」と密接に結びつきながら深層次元に脈動する実在ですから、無関心やシニシズムの世界おける「自己」とは、ユングのいう「自我=エゴ」と、同じく、表層次元に浮遊する閉塞的な自意識でしかありません。」
「そうした「自己」は「他者」が不在であり、「他者」の痛みや悩み、苦しみへの不感症に陥っているがゆえに、自分の世界に引きこもってしまったり、ささいなことでキレて暴力的な直接行動に走ったり、あるいは素知らぬ顔で傍観者であったりする。」

現代社会を覆う「他者」不在の病理
「他者」不在という精神病理が、二十世紀を席巻した狂信的イデオロギーを生み出す格好の土壌であったこと、また現在でも、バーチャルリアリティ(仮想現実)の氾濫によって、「他者」は影が薄くなる一方であることを指摘。「自己」のうちに「他者」が欠落していれば、「対話」は成立しない。

・「対話」こそ人間を人間たらしめる基盤
「真のリアリティーとは、そのような自己閉塞的で表層的な次元を突き破り、「自己」と「他者」の全人格的な打ち合い、言葉の真の意味での対話を通してのみ発現され、生成躍動する精神であり、共通感覚であります。」
さらに「内なる精神性」は苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断といった魂の格闘を経て顕現されるものではないかと指摘。
具体例としてドストエフスキーの『死の家の記録』から引用。
「民衆は、その罪がどんなにおそろしいものであっても、罪のゆえに囚人をけっして責めない、そして囚人が背負わされている罰と、不幸な境遇のゆえに、囚人を許しているのである。ロシアのすべての民衆が犯罪を不幸と呼び、罪を犯す者を不幸な人と呼んでいるのは、けっして偶然ではない。これは深い意味のある定義である。それがいっそう尊いのは、無意識に、本能的になされているからである。」(工藤精一郎訳、新潮文庫

「「不幸な人」という言葉は、何と豊穣な五感、余韻を湛えているでしょうか。ロシアの民衆への思い入れもあるかもしれない。しかし、私は魂の表層次元を突き抜けて深層へと迫る文豪の眼力を信じます。
 犯罪を「不幸」と呼び、罪人を「不幸な人」と呼ぶ――この民衆の眼差しは、いつも「他者」をしっかり見据えております。囚人も自分も別の人間ではなく、いつ自分が同じ境遇になっても不思議ではないという共感性が脈打っております。
 そこには、自分を「善」、他人を「悪」と決めつける軽佻浮薄な傲慢さ(イデオロギーの悪の淵源です)と決別し、縁によって「悪」に堕ちた者は、また縁によって「善」へと蘇ることができるとする精神性が磁気を帯びており、ルソーが原初の社会感情とした「憐憫」の心の広がりが、包み込むように伝わっています。
 外からみて、どんなに苦しい状況下にあろうとも、そのように人間の絆が保たれ、コミュニケーションが全うされている社会は、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという不遜な問いかけに人々が虚を突かれ、及び腰の議論を余儀なくされるような社会、すなわちコミュニケーション不全を病む社会とは、まさに対極に位置しているのであります。
 そして、ドストエフスキーのその後の著作に通底するテーマが、壮大なる弁神論であることが示しているように、あるいはルソーの教育理論の根底に、ドグマ(教条)や教会の権威とは無縁の独自の宗教感情が据えられていたように、普遍的な共感性や精神性の核心部分には、ほぼ例外なく何らかの宗教性――唯摩詰の「一切衆生病むを以って是の故に我病む」という言葉に凝縮される大乗仏教の菩薩道の極致や、「九十九匹」よりも迷える「一匹」に親しく接するイエスの愛の精神と強く響き合う、人間本然の宗教性が息づいているのではないでしょうか。」

ガンジーらの非暴力運動の源
「宗教は、他のすべての活動に対して道徳的基礎を提供する」(ガンジー『私にとっての宗教』竹内啓二訳、新評論
非暴力運動が普遍性と不変性を獲得したのは、宗教的信念に裏打ちされていたからであると信じていると指摘。
この精神性、宗教性というファクターを機軸にして、教育の問題を洞察した人として、A・H・マスローを引用、紹介。
教育の第一義的課題として
「教育は、その人がそのなりうる最善のものとなり、その人が潜在的に深く蔵している本質を、現実にあらわすのを助けるべきである」(『創造的人間』)
「マスローは、その課題を全うするために、教育における「長期の価値目標」「究極価値」から片時も目を背けてはならない、そうでないと、教育は、その人がなりうる「最善のもの」を見失う本末転倒に陥ってしまうであろうと、警告を発し続けました。」
「マスローいうところの長期かつ究極的な「価値目標」とは、彼が「哲学的」「宗教的」「人間主義的」「倫理的」等と形容している、人間が深く蔵する精神性、宗教性の涵養にほかなりません。」

マスローが「価値ぬきの教育でよいのか」と問いかけたように、精神性や宗教性といった人間の心の深層にまで踏み込んだ根本療法にアプローチする段階にきているのではないかと。


・宗教教育の強制は戦前回帰の愚
・「信教の自由」は断じて守り抜く
・宗教性と宗派性
宗教性と宗派性は違うことを指摘。
当然、公教育で特定の宗教のための教育は禁じられているし、反対してることを指摘。
その宗派性を教育に持ち込んではならない学校教育で、子どもの荒れた内面を耕し、緑したたる沃野へと変えゆく古今変わらぬ回路は、そうした精神性、宗教性を豊かにたたえた芸術作品、なかでも書物に接していくこと、即ち読書であると思うと指摘。

・読書を通じた人格形成を人間教育の柱の一つに
「コミュニケーション不全の社会に対話を復活させるには、まず言葉に精神性、宗教性の生気を吹き込み、活性化させていかなければならない。その活性化のための最良、最強の媒体となるのが、古典や名作などの良書ではないでしょうか。」
事例としてスウェーデンの例を紹介。何冊かスウェーデンの教育の本を読みましたが、それはテーマ学習のことをだと思います。


・人生経験に通底する「読書経験」
今、なぜ読書か、3点を指摘
第一に、読書経験がある意味で、人生経験の縮図を成しているからであると。
山本周五郎の『ながい坂』から引用して説明。
・仮想現実の氾濫がもたらす弊害
第二に、読書経験がバーチャルリアリティ(仮想現実)のもたらす悪影響から魂を保護するバイアー(障壁)となってくれる。
第三に、「日常性に埋没せず、人生の来し方行く末を熟考するよいチャンスとなるでしょう」
「何といっても大切なのは、読書経験を通じて、子どもたち自身の「問いかけ」を大切に育みながら、時間をかけて自分を見つめ直し、自分の力で「答え」を探し出す力を育んでいくことでしょう。」


トルストイが描いた回心の劇
偉大なる文学作品は、問いかけの宝庫といってよいと指摘した上で、
トルストイの「アンナ・カレーリナ」の場面を紹介。人間の内なる精神性、宗教性に迫って、古今の大文学の中でも白眉であるとのことです。


・古典や名作と格闘する青春を
トルストイに限らず時間の淘汰作用を経て生き延びてきた古典や名作には、必ず”何か”が含まれているはずであると。
「外国の大文学が重すぎれば、日本の近代文学、あるいは河合隼雄氏が推奨しているコスミックな児童文学の中からでも、いくらでも拾い出すことが可能であるでしょう。」

・開設32年迎えた「教室相談室」
・「教育」の深さが「未来」を決める