まじめな話ですが、
「南無妙法蓮華経」って音がすごいと思う。
すごく力強い音とリズムのある言葉だと思います。


「南無妙法蓮華経」も名まえですが、
名まえは唯一性をあらわすことができません。
「南無妙法蓮華経」をサンクスリット語で表すことができるし、


例えば
僕と同姓同名の人がいます。山田太郎という人が常に複数存在する可能性があります。


しかし音の組み合わせは別だと思います。
ある音の組み合わせは宇宙で唯一です。
「さしすせそ」「がぎぐげご」「なにぬねの」
それぞれの文字に対応している音の感じが違います。
その組み合わせによって、その言葉の感触が違ってきます。


死んでも僕は「南無妙法蓮華経」という名まえに地球かまたは違う星でも出会うことができるような気が真面目にするんです。死んでもまたどこかで同じ考えには会えると思っていたのですが、同じ名まえに会えると思えるようになってきたのが30代前半。おもしろいことだと思います。


でもそれは信仰のレベルの問題で
答えが経験から出発して科学的に出るものではありません。
カントが『純粋理性批判』で扱った問題のように、
ブッダがそういった神がいるのか、無限があるのかといった問いに
「無記」といって答えることを拒否したようにです。
理性で答えが出る問題ではないということです。
だからこういった問題は科学的には分からないというのが正解です。
分からないことをないと断定的に否定するのは嘘だと思います。
分からないものは分からないのです。信じるか信じないかの問題。
また信じることがどう人々を変えるのか、
その変容の影響はどんなものかという宗教社会学の問題はある。



そこでパスカルの賭けの問題に移ってくる。
彼がいうようにそういった無限や信仰や神の問題を
信じて嘘だったとなるよりも
信じないで本当だったというほうが怖いです。
だから信じるという話。
そういう次元でもそうですが、
そうじゃなくても信じるか信じないかといったら僕は信じます。
いろいろ学んで考えているうちにこの人生だけではないなってそう感じるようになりました。科学的な根拠は何もないです。
間接的な証拠としてエリザベスキューブラーロスの研究があるくらいです。



音の組み合わせの唯一性や感触に普遍性を感じるようになってきました。
おもしろい。「南無妙法蓮華経」には永遠を感じます。。