読むことのアンケートを学級開きと今やりました。読むことがとても嫌いからけっこう好きに変わった子などいた。でも気を使って好きのほうに丸する子もいるかもしれない。保護者の方と話していると今まで本をよく読んでなかったけれど読むようになってと言ってくれることがあって、それがかなり信憑性があるかもしれないと思いました。四年間くらい本が近くにある教室環境を意識してきて、そういうことがけっこう起きる。RWの効果。



その子はその子の人生を生きていくだろうけれど、いつも心配、読むことが苦手な子たち。その子たちなりに伸びているとは思う。


それに付随して思い出すのは、
自分みたいに頭がよくなくても、
それなりに本を読んだり勉強したりすればそれなりに前に進める。それが凄く大事だと思う。
本を読んでいなかったら僕の場合はまだ闇の中にいただろうと思う。
とても頭が悪いので牢獄行きか自分が原因でバカなことをして死んでいたかもしれない。自分が破滅しなかったのは運がよかっただけかもしれない。


よくできる子とか、できない子とか、
上とか中とか下とか子どもがラベルでくくられることがあるけれど、
下とかくくられる子たちも努力すればちゃんと前に進む。それがもの凄く大事だと思う。それでやはり人生は変わると思う。勉強がすべてではないと思う。MIのことも思う。でもその子なりに苦手な分野でも磨いていくことは大事だと思う。


本を読むのがとても嫌いだったけれど、どちらかと言えば嫌いに変わった子。その子は正直なリアクションをする子なので本当なことだと思う。それに見てもわかる。積極的に読むことはほとんどない。でも書いてあることを理解したいかという質問の答えは前向きなものに変わっていた。その前進を嬉しく思うのと同時に本当に本を読むことを好きにさせる経験を助けれなかったことが凄く悔しい。でもこの経験が後に繫がって自分みたいに読むことを嫌いでも好きになってくれたらと思う。


今まで担任した子たちで読むことが苦手な子たちは違った感じで思い出す。自分も苦手だったからかもしれない。前年度苦手だったけれど少年探偵団シリーズにチャレンジする子がいた。今年度もまた機会があって会ったときもこういう本を読んでいるよと教えてくれた。その子は将来の夢を考える場面で小学校3年生なのに無職になりたいと答えてきてびっくりした子だけど、これからその子らしく幸せに生きてほしい願っています。





「本物の知者=知識人だったらならば、戦前戦中(いや、現在とても然りですが)日本の学問水準が到底『知育偏重』の水位まで上昇しておらず、あべこべに『知育偏軽』『知識貧弱』(従って『道徳偏軽』『道徳貧弱』)の海底面に釘付けされたままでいることを、看過誤認することは無かったのです。本物のなかの、すぐれて本物の知識人だった牧口の眼には、日本の教育現実はどんなに暗澹たる光景(げんに彼は日本を『教育中毒』と呼んでいる)として映ったか。七十年後の今日とて同じです。
 小学生が、自分の気に食わぬ子をいじめて平気でいる。中学生が、公園のベンチに寝ている老人を殴り殺す。高校生が、酒や麻薬や性暴力その他の犯罪をおかす。――これらは知育偏重・徳育偏軽が原因で生起することなのですか。すべては知的に貧弱劣悪だから起こると理路整然と分析し論証してくれる牧口『二育説』および『日本人知識貧弱説』に、賛成せざるを得ないではありませんか。俗説世論に逆らってでも、いま、『知育偏軽』の教育現実に立ち向かおうではありませんか。
 一見迂り道のようにみえても、知識=知性を最大限に働かせて人類普遍の真理を獲得することこそ却って幸福実現への捷道となる、との見通しに立つ牧口教育理論は、今なお正しく新しいのです。」『牧口常三郎の思想』70項