湯浅さんの「溜め」の概念。



手本とするべき大人に出会えない、
いい本にも出会えない、そういう人もいる。
それでも生きていくけれど、寂しいこと、大変なことだろうと思う。
ある方が言われるように
タバコを吸いながらパチンコをすることが
その方が必死に生きていることなのかもしれない。
いろいろな必死にがんばって生きている姿がある。



最終的には自分はいい本にも尊敬できる大人にも出会えたので、本当に恵まれていると思う。よく感謝しなきゃだめだし、自分のやれることを考えて生きるべきだとも生きたいとも思う。自分のことを考えていい出会いがあればアホな子なりによく変わる。今の自分がいいとは思えないけれど、それでも酷い状態からマシになったよく変わったことは間違いないです。


「本物の知者=知識人だったらならば、戦前戦中(いや、現在とても然りですが)日本の学問水準が到底『知育偏重』の水位まで上昇しておらず、あべこべに『知育偏軽』『知識貧弱』(従って『道徳偏軽』『道徳貧弱』)の海底面に釘付けされたままでいることを、看過誤認することは無かったのです。本物のなかの、すぐれて本物の知識人だった牧口の眼には、日本の教育現実はどんなに暗澹たる光景(げんに彼は日本を『教育中毒』と呼んでいる)として映ったか。七十年後の今日とて同じです。
 小学生が、自分の気に食わぬ子をいじめて平気でいる。中学生が、公園のベンチに寝ている老人を殴り殺す。高校生が、酒や麻薬や性暴力その他の犯罪をおかす。――これらは知育偏重・徳育偏軽が原因で生起することなのですか。すべては知的に貧弱劣悪だから起こると理路整然と分析し論証してくれる牧口『二育説』および『日本人知識貧弱説』に、賛成せざるを得ないではありませんか。俗説世論に逆らってでも、いま、『知育偏軽』の教育現実に立ち向かおうではありませんか。
 一見迂り道のようにみえても、知識=知性を最大限に働かせて人類普遍の真理を獲得することこそ却って幸福実現への捷道となる、との見通しに立つ牧口教育理論は、今なお正しく新しいのです。」『牧口常三郎の思想』70項


この言葉についてよく考えることがあって、ある意味な残念な実感と一緒に深く共感します。本当に賢い人、よく考える人は人をいじめたりしません。間違いなく釈尊ソクラテスがいう自律に向かって、破滅には向かわない。



この社会、この世界をどうしていくかという問題でも同じことだと思う。ただ目先にことではない。短期的、長期的な視野を総合して考えること。


自分はまた怠惰になってきている。