まず祈ろう。


ポジティブシンキングの流れで、
祈ることを科学的に根拠づけようしていることについて書いてあったけれど、


トルストイが言うように
証明することは困難だけど
祈ることや永遠なるものについて人は容易に分かるようにおそらくできている。


そんなこと科学的に証明する必要はないし、
カントが理性批判で説明したように
この世界が無限か有限かといったことは理性で解決できる問題ではない。
理性の越権。
だからウィトゲンシュタインもカントもブッダも語り得ないことに沈黙する。


証明不可能なことについて言い争うことは不毛で(こういう不毛な議論に一切関わらないで済むようになることを考えるとやはりカント哲学の効用は大きい)、
もっと大切なことがあるってカントやブッダを読むとよく分かります。



先天的なもの、後天的なもの、心と環境など、
それぞれが時間的にも空間的に関わり合って、
一つの全体として真実が横たわっているいるだけだけど、
やはりカントの議論で宗教の可能性を原理的に残せたのは大きいと思う。
そのプロセスの果てに、因果律の世界と理性では決して判断することのできない世界に生きているということが分かる。因果律の世界と因果律を超越した世界。時間と時間の超越。ソクラテスなどの哲学の流れとブッダの考えも奥底で共鳴する。


哲学は徹底した思考の営みだからいい。
難しいところはあるけれど、がんばってくらいつくと開ける世界がある。


次の目標はレヴィナス。といってもカントの理解も中途半端だけど、カントを理解するのも一生の問題だから少しずつあせらず読んで、現実のことも考えていこう(哲学も現実の一部だけど)。カントを理解できなければ先に進まないだとたぶん一生、レヴィナスを理解できないし、カントはライプニッツとかヒュームなどの影響があって、その思想も関係の産物だから、他の思想も同時に読んでいかないと結局理解できなくて、はるこに遠い遠いゴールだと思う、哲学史の探究は。哲学の探究が現実の問題に繋がっているけれど、現実を生きることをおろそかにできない。



でも哲学を学ぶこと、哲学すること自体がどう生きるかに直結している。