文学史家・高崎隆治の証言(1)(2)

日本政府は原爆投下を予測できなかったのか?
――文学史家・高崎隆治の証言(1)

「戦時下の1943年夏を語る」
 (※「開戦当日―5つの予言―」の節のみ抜粋)
 高崎隆治
 その朝〔注:1941年12月8日朝〕、登校しようとして電車に乗ったら、海軍の将校が5人も10人もどやどや乗ってきました。不思議なことに、その全員が日本刀(軍刀)を、紫の袋に入れ持っていたのです。海軍の将校というのは、平常は短剣を吊っているはずです。それが、その日は、紫の袋に入れた長い日本刀を持っていた。しかも、電車に乗るときにです。「なんだ、これは?」と思いました。
 私が通っていた中学校は、俗に「海軍学校」と言われていた逗子開成中学(昔の開成二中)という学校です。なんで海軍学校と呼ばれるかというと、校長は横須賀海兵団の団長であった人。教員は、30人から40人くらいいる中の十数名が、海軍の元将校。だから、海軍学校と呼ばれていました。海軍将校がたくさん電車に乗っているのは不思議では無いのですが、その日に限って、軍刀を持って乗ってきたわけです。
 ところが世の中にはおっちょこちょいの人がいて、背広を着た中年男性が、大声で「とうとうやりましたね。アメリカなんて、イチコロでしょう」と、言うのです。海軍の将校たちは、返事をせずに黙っています。「どうですか? 一週間くらいでケリがつくんじゃないですか?」と男が訊ねても、将校はみんな堅い表情で何も言わない。
 このとき僕は、「戦争が始まった」と思いました。そして、その変な男は、海軍将校たちが何も言わないものだから、竹刀袋を持っていた僕に、「君は剣道部か。がんばれよ。アメリカなんかに負けるな」と言ってきました。僕は海軍将校にならって相手にしませんでした。
 余計なことをいうようですが、その日の夜、僕は親の前で、戦争の見通しを5つ言いました。
「①東京、横浜は焼け野原になる」
「②その前に頭の上に原爆が落ちる」
「③その直前にソビエトが戦争に参加してくる」
「④しかしそうなる前に、俺は戦場のどこかで死んでいる」
「⑤戦争は昭和20年に終わる」
の5つです。当たらなかったのは、④の僕の戦死のみで、あとは全て当たりました。
 この見通しは、いい加減ではないのです。例を少し挙げます。さっき触れました、教員の海軍将校のなかに、戦艦の機関長がいました。国枝三郎という大佐ですが、その人が開戦の直前に言うには、「日本は軍艦を動かすのに必要な重油を2年分しか持っていない。だから戦えるのは2年間だ。それ以上やると負ける」のだと。僕の計算ですと、「戦争を始めたら何割かの日本の軍艦は沈むから、2年分の備蓄はいくらか残るだろう。だから1年足して、3年間は戦える。17・18・19年の3年間。しかし、昭和20年に日本は負ける」。こういう推理です。
 それから、「原爆」ですが、当時、『フレッシュマン』という中学生向けの月刊誌がありました。後の英語廃止によって、『新人』と改題されましたけれども、この雑誌の昭和16年の9月号(と記憶していますが)に、原爆のことが書いてありました。残念ながらその号は、僕が兵隊に行っている間に、弟が誰かにあげたので、いま正確な引用が出来ませんが。
 なんと書いてあったかというと、「ロンドンやニューヨークといった、大都市が理論的に一発でふっとぶ爆弾がある」と。更に、「これを発明するのはどこか? それには条件が2つある。ひとつは世界一の経済力、もうひとつは世界一の頭脳。この2つを持つ国が発明する」のだと。「今度の戦争は(これは、太平洋戦争ではなく、欧州大戦のことです)、どこの国がその原爆を先に作るか? それで決着がつく」と。
 僕はこれを読んだ時に、顔色が変わるほどびっくりしました。というのは、「頭脳」の点で当時世界一は、ドイツといわれ「経済」はアメリカ。となると、その2つの条件でいえば、発明するのはアメリカに決まっています。なぜなら当時の新聞は、ドイツの有名な科学者が次々にアメリカに亡命していることを報道していました。亡命者の名前はみんな忘れてしまいましたけれども、ドイツの科学者の少なくとも10人から20人がアメリカに亡命しています。こうなると、原爆はアメリカが作りますよね。
 敗戦時、日本人の99.9%が「原爆」のことをまったく知らなかった、といいましたが、僕にはそれがいまでも信じられません。当時、中学生だった人間が知っていたのですから。
(以下略)


(追記)

高崎先生は、日本で最初に南京事件の研究をされた4人のなかのお一人です。国会図書館にもない戦時下の文献を多数所蔵されていたことでも有名でした。代表作は『戦争文学通信』、『従軍作家・里村欣三の謎』(京都大学人文科学研究所奨励賞受賞)など。講談社『昭和万葉集』全20巻の編集顧問も務められました。


(追記2)

もう20年以上前のことになりますが、大学一年生のとき、横浜で高崎先生の講演を聞きました。文学者やジャーナリストの戦争責任に関する講演で、それまでこの分野のことをまったく知らなかった私は大変な衝撃を受けました。今もはっきりと覚えているのは、次の趣旨の内容です。

――よく世間で戦争中の文学者やジャーナリストについて「皆、権力に妥協した点では五十歩百歩だ」というけれども、それは浅い見方である。50歩の妥協と、100歩の妥協とでは全く意味が違う。誰が何歩の妥協をしていたのか、一つ一つ文脈に即して丁寧に見ていかなければ、歴史を理解したことにはならない。

今思うと、このときの講演が私の研究の出発点にあります。高崎先生の厳正かつ公平なまなざしを模範に、研究に打ち込みたいと思います。


日本軍部は空襲すら想定していなかった
文学史家・高崎隆治の証言(2)

「戦時下の1943年夏を語る」
 (※「昭和17年―初の空襲―」の節のみ抜粋)
 高崎隆治
 太平洋戦争が始まり、翌17年に入ると、アメリカのノースアメリカンB25という陸上機が、東京・横浜・神戸あたりに初の空襲をします。日本人も愚かだと思うんですが、ハワイあたりから日本まで爆撃をして帰って行ける飛行機は存在しない。だから、アメリカの長距離爆撃機は日本に来ない、と考えていました。軍部もそうなんです。
 ところが、B25はやって来ました。どうやって来たかというと、航空母艦に積まれて、です。陸上機とは陸上爆撃機の略で、それは陸上の基地から出発するものです。それに対し、艦爆とか艦攻というのは、航空母艦から発進します。日本では、陸上機は航空母艦に絶対に積めない、と言われていましたが、積む数を減らせば、積めるのです。ですから、陸上機による空爆はありうるのです。
 4月18日に、僕は中学の創立記念日で、家にいました。すると、頭の真上を、高度500メートル位で、東京方面から横浜へ向かって来ました。翼の下には、アメリカ軍のマークがありませんでした(マークが塗りつぶしてあったので)。下から500くらいの距離ですからよく見えました。それは頭上を通過して、横須賀方面に行ったんですが、横須賀もこれによって爆弾を何発か落とされています。
 そのことは後でわかったことで、当時は絶対に空襲はないと信じて疑わなかった、ということです。民間人ならともかく、軍人もそうでした。あんまり軍人の悪口言っちゃいけないと思うんですが、僕の女房の父親というのは職業軍人です。
 「ミッドウェー海戦」が17年6月にあります。ミッドウェーはアメリカの領土で、ちょうど日付変更線のすぐそばです。ここで日本の海軍は総力をあげて、アメリカ海軍と戦いました。戦争が始まる前、アメリカに航空母艦が何隻あったかといいますと、7隻でした。日本は6隻。この時その6隻のうちの4隻で日本側は出動しました。アメリカ側は、7隻のうちの6隻だという説と5隻だという説があります。
 結果は、日本の航空母艦、4隻全部が沈没です。アメリカはこの時に1隻しか失っていません。アメリカにはまだ残り6隻ありますが、日本にはあと2隻しかない。しかも、この2隻のうちの1隻は、ミッドウェー以前に沈没しています。オーストラリアの近くに珊瑚海という海があり、その珊瑚海の海戦で、日本の空母2隻のうち、1隻が沈没し、1隻がかなり傷んでいます。結局、空母6隻のうち、5隻ダメになり、残りは大破した1隻です。アメリカが失ったのは1隻だけ。こういう結果です。
 年表昭和17年の「沈没」という項目をご覧ください。戦艦が2隻、一等巡洋艦重巡)が3隻、駆逐艦が12隻、潜水艦が4隻、輸送船が23隻、空母以外にもこれだけ沈んでいるのです。これでは、もうほとんど戦争にはなりません。ここで戦争を止めていたら、原爆は落ちなかった、と僕は思うんです。
 戦えないはずの状況であった日本は、その時に何をしたのか? それは同年7月の「金属回収」です。お寺に鐘がありますよね。それから、銅像、あるいは橋の欄干の手すり、そういうものをみんな回収して、軍艦や戦車を作る。女学校では、外国語を随意科目にして、やってもやらなくてもいいようにした。
(以下略)


(追記)

ドイツにいるのだからドイツの話を投稿してほしいという方もおられるかもしれません。そしてその通りなのかもしれません。しかし、私自身としては、ドイツにいるからこそ、日本の戦争の歴史のことを日々考えざるを得ないのです。

現に、高崎先生も常々、統一ドイツ初代大統領ヴァイツゼッカーの言葉を引いておられました。「過去に目を閉ざす者は、現在をも見ることができない」

初出は『創価教育』第5号、2012年


I先生がシェアーしてくださった文章を
自分のためにも、
戦争の記憶を忘れないためにも、これからのために僕もシェアー、そして記録。