- 作者: 日蓮,紀野一義
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2001/09
- メディア: 新書
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退転しないとはどういうことなのか。
誓願とはどういうことなのか。
そんなことをこの佐渡の雪の中で書かれた聖典を読みながら考えています。
身読と行って、
日蓮は法華経を身で読んだ。
それが天台や伝教との違い。
この現代に身で法華経を読める人がどれだけいるのか。
現代的に
広げると権力とどう関わるのかという問題になるのかもしれない。
法華経自体を比喩と読む、読み方がある。
自分の生きている世界の比喩だ。そう考えるとやはり権力との関わり方によっては、どうなるのかという法華経の側面を読めるかもしれない。そうやって広げて考えると、法華経を知らなくても、法華経の行者のように生きてきた人はこの地球上に昔も今も存在したし、存在すると考えられる。成仏って、あり得るとしたら、その権力に対する心のあり方なのかもしれない。心の財が第一なのだ。ショーペンハウワーと同じ結論なのだ。
一度も退く心なしっていう日蓮の言葉を思い出す。
やはりすごいと思う。僕の心は振り返ると正直、退きまくっているからです。
ひねった読み方よりも、まずまっすぐに関係からテキストに向き合うことか。その上で何か普遍的に通用する思想を見出せると思う(もうそう思えるものはあるのだけど)。
まあでも比喩として読むしか、ああそうですねと読める内容ではないですけどね、法華経は。