選挙マシーンではない

大学生の時、
学生平和推進委員会というところで、
イラク戦争在日韓国人への差別問題などについて考えていました。
また僕は学生部というところに所属していて、
その組織のグループの長として、
創価学会の活動や公明党の支援をしていました。


イラク戦争には反対だったけれど、
政府がイラク戦争を支持していたけれど、
公明党の議員の数は自民党と比べて少ないこと、
(今も言われるけれど、これは支持する理由にもうならない)、
公明党自民党のブレーキ役となっていたこと、
福祉政策などの実績、働き、他にもいろいろなことを総合・判断して、支援していた。


当時僕はその公明党の支援活動だけではないけれど、
いろいろ悩み、考えながら生きていて、円形脱毛症になるということがあった。
たぶんストレスだったのだとその時から考えている。
僕は信仰と学問を徹底的にやり抜こうと決意して大学に入学して四年生になる頃だったと思う。



内田樹さんが著書で創価学会員のことをたしか選挙マシーンというようないい方で馬鹿にしていた。それで彼のことを学者として認めつつも、どちらかというと嫌いになった。今もそうだけど、創価学会員の多くは考えているし、悩んでいる(一方、あまり考えていない人もいるかもしれない)。決して選挙マシーンではない。



高橋源一郎さんの本を読んでたら、なぜだかこのことを思い出して書きたくなってしまった。
僕は学会の3世として生まれて、高校生の時なんかは、もの凄く反発していた。いろいろあって今があって、自分の場合は、仏教、公明党に向き合う必要があるというか、必然性があるところに生まれた。いいことばかりではないし、その向き合って考えてきたことで悩んだことや苦しんだこともあったけれど、よかったこともたくさんあって、自分の世界が広がった。


日蓮仏教について考えるために、仏教の歴史を学んだ。比較するためにキリスト教イスラム教など他の宗教についても学んだ。公明党などについて考えるために経済や政治、法について学んだ。信仰についてなど根本的に考えるために、哲学史・思想史など、さまざまなことを学んで考えた。それはとてもよかった。心の財産だと思う。



頭はよくないけど、切実さがあったから、必死に学んだ。それはよかった。



一部で全体が直ちにだめだとは思わない。
それは公明党に限らず、他の政党でも、その他のことでも。物事は複雑だ。


全体を見て考えて分かることがあるかもしれない。部分に分けてこそ分かることがあるかもしれない。部分から分かることを総合してはじめて分かることがあるかもしれない。そこから部分に戻ってはじめて分かることもあるかもしれない。



スタンスは変わらない。
できるだけ正確な認識ができるように一次資料に戻りながら考え続けていこう。
できればいろいろな現場にも行ってみたいけれど、あまり余裕がなさそう…。
今、けっこう自分の仕事の現場でいっぱいいっぱいかもしれない。


僕には公明党や、その他のも政党もそうだけど、その人たちのことを全部認識することはできない。でもできるだけ知って考えるようにしよう。あといろいろなことに逃げないで向き合っていこう。自分の視点に自覚的になりながら、違和感をスルーして、いいところ、よかったことばかりしか見ないとか、できるだけ偏った見方をしないようにしよう。


公明党を見限っている創価学会員もいるだろうけれど、
自分にはまだ公明党を信じたい気持ちが残っているのだと思う、絶望してなくて。
遠山さんみたいに憲法学者を馬鹿にする傲慢な言動を読んだ時など、悲しい気持ちになる。
他にも公明党の議員の言動で、これは嘘かもしれないと思った時も悲しくなる。
信じたい気持ちが残っているからこそ、なおさらいろいろな視点で同じ問題の認識を深めていく必要があるし、徹底的に疑って批判・吟味したい。


でもこれがけっこう自分のふつうのスタンスで、信仰や宗教のことも、同じように徹底的に疑って批判・吟味して残ったものしか信じられない。