フーコー 研究することについて

Tさん

監獄についての、具体的運動を彼が行っていたこと。だから、彼が、その具体的活動からの視点を常に持っていたということが分かります。

これは他の分野でも違った意味でも大事な視点だと思う。


当時カントを正確に理解できていた人は少なかったらしいけれど、
牧口常三郎創価教育学大系は実践から生まれたもの。
具体的な教案がたくさん残されている。
その教育学の核は21歳の時の作文授業の教案にある。


かなりはっきりしているかもしれないと思うことがある。
教育におけるディスクールで具体的活動を離れたものは貧しい(人と研究する内容によるかもしれないけれどよく思うこと)。
具体的活動をしていた、またしていることには大きな意味があると思う。



違うか、ただ人によって深さに違いがあるだけかもしれない。


「書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない」(ショーペンハウアー
他人の血を理解するのは容易にはできない。読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む」(ニーチェ


「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」(ショーペンハウアー
「書かれたすべてのもののなかで、私が愛するのは血をもって書かれたものだけだ」(ニーチェ



教育にはいろいろ理論や考え方があり、多くの個性豊かな実践者が存在する。どちらが正しくどちらかだけが間違っていることなんてあるのだろうか?Tさんが論争について、言われていたようにどちらも正しく深さに違いがあるだけかもしれない。また視点の違い、状況の違い。