「生徒の自由な読みでは深く読めない」のか?(1) メモ

http://askoma.blog.jp/archives/46131243.html
面白い。

「深い」の定義にもよるし、
人によるかな。
デリダみたいに、
教師には意味不明と評価されても、
歴史に残る読解ができる人もいるから
(この歴史に残る読解が必ずしも深いとは言えないけれど)。


「生徒の自由な読みでは深く読めない」のか?
人によるので、すべての生徒が対象ならきっと答えはノーですね。



「生徒が自由に解釈する文学作品の読解の授業だと、深い読みができないのか」

人によるか…。
人によると言うのが自分の答えかな。
人によってはできる。


と考えると
教育の質を高めるのがたぶん学校と教師の働きだから、
そのためにできることを考えることが大切か。



と考えると、
授業における自由の意味と存在(どこまで、どのように自由を配置するかという教師のさじ加減)、教えることの質、環境の利用、環境づくりなどが問題になるか。




一方、デリダみたいな読み方ができる生徒はほぼいない。
あと深く読む必要が授業にあるのだろうか。


深い読みとの出会いは必要なのだろうか。