○○しかない

熱燗2合+ビール1.5リットル少し飲み過ぎてしまった。


時間を大切に。


浅いレベルで○○しかないという書き方で何かを主張している人をたまに見かけて(しかも一方のメリットを無視してデメリットしか見ないでバカにしている。どの論争もそんなものなのかも)、事実そんなことなくて違和感をとても感じることがあるけれど、いちいち反応しないでスルーしよう。



アトウェルみたいな例外的に違和感を感じない人もいるのが不思議。
たぶん事実そんなことないと明確に分かる場合に特に違和感を感じる。
そうじゃなくても疑わしいと思う。その上で違和感を感じない人がたまにいます。
やはりそれが不思議。なんでだろう。



もう生き方みたいに、あとその考え方が授業そのものになっているというか、そんな方もいて、その徹底にはとても意味があって、一つの教育としてとてもステキだと思うことがある(それがすべてで、万能だとは思わないけれど)。そんな時に違和感を例外的に感じないかもしれない。たぶんその人の掘り下げ方、深さからかもしれない。あと単純にいい!と思うからかもしれない。教室ならその教室で自分自身が学びたいと思うからからかも。


一つのスタンスが立っても○○しかないなんてというような言い方をする実践者は少ないと思うし、してないか。理論家よりの人でたまにそういう人を見かけるのかな…。




一つのスタンスに立っていっても、
自分と違う考え方の人に交じっていく人で思い出すのが、
石川晋先生。学びの場に出かけて考え方が違うのになぜ来たのかと驚かれることがあるらしい。それで確か石川晋さんは、考え方が違うから来たのだというようなことを答えたというエピソードをブログかなにかで読んだことがある。石川晋さんの豊さとか、深さとかは、そういうところからも来るのだと思う。でも石川晋さんは○○しかないという書き方をたぶん見たことがない先生。



そういう先生を他にも知っているけれど、みんなそれぞれ考え方が違っても、豊かさと深さを感じます。そんなふうになれたらと憧れる。