フーコー コレクション5 「個人の政治のテクノロジー」

コレクションのセミナーで、フーコー自身が自分の仕事のスタンスや要約を語ってくれている。
「第一に、程度の差こそあれ予言者ぶったやり方で、人々が何を考えるべきか述べ立てるというようなことは、私には少し気恥ずかしく思えます。私はむしろ、人々に対して、私が具体的な歴史的事実の分析によって提起している問いかけから、彼ら自分の結論を引き出したり、一般的な考えを導き出してもらいたいと思うのです。そうした方が各人の自由を尊重することになりますし、それが私のやり方です。」p408



「狂気と精神医学、犯罪と懲罰のそれぞれの研究を通して、私が示そうと試みたのは、犯罪者や狂人といったある種の他者を排除することによって、私たちは自分たちをどのように間接的に構成してきたのかということでした。そして、その後、私の現在の仕事は次のような問いを扱っています。ギリシャ・ローマの古代から現在にいたるまで発達してきた、ある種の自己の倫理的技術によって、私たちはどのようにして自分たちのアイデンティティを直接的に構成するものなのか、という問いです。」p407

これを読むとフーコーは主体を批判したけれど、決してただ否定することを意図していないことがわかる。

もう一つの問いとして、
ここで扱っているのが、個人の政治のテクノロジーを通して、どうやって私たちが国家の一部であると認識するようになったかということ。




「個人を社会の存在の中に編入することをゆるすこれらの新しい技術を、定義し、記述し、明示的に組織することの必要性を認める人々が存在したのです。彼らはその必要性を認め、それに、フランス語でポリス(police)、ドイツ語でポリツァイ(Polizei)の名辞をあたえたのです」p417


「私の考えでは、日常的な政治的合理性にといては、政治理論の失敗はおそらくは政治のせいでも理論のせいでもなく、それら政治と理論の双方が根づいている合理性のタイプに基づいているのです。」


「私の考えでは、私たちの政治的合理性の最大特徴は、次の事実にあります。すなわち、個人たちの共同体や全体のなかへそうした統合が、絶えず先へと押し進められる個人化とこの全体性の強化との間の絶えざる相互作用に帰結することにあるのです。この観点から、私たちはなぜ権利/秩序という二律背反が現代の政治的合理性を可能にするのか理解することができるのです。」p432


これは安保法制の議論とも重なってくるかな。この認識を深めると、何がどう変わるのだろうか。


どういう合理性のタイプならいいのでしょうか。
コレクション6と講義でヒントが得られるのか。