ヘルバルトの実在論

ヘルバルトの考え方
牧口常三郎の思想』p185から一部引用
1「哲学の基礎および出発点は、事物に関する経験的知識である」これはカントとおなじ認識。

「ペスタロッチーの直観のABC」で主張されるところもここから来ているはず。

2「経験的材料が哲学の基礎であるが、しかし、それはこのままでは未だ哲学の外にある。そこで、哲学の最初の行為として、思惟をばまず経験から身を捥ぎ離さねばならない。哲学のはじまりは懐疑である。懐疑の結果は消極的なものではなくて積極的なものである。疑うとは、哲学の素材である経験的諸概念を思惟することにほかならない。」

3「形而上学とは、経験の把持性に関する学である。」

経験的概念の修整、それから矛盾を除去すること、これが思弁に特有な行為である。

4「以上の考えから出発して「実在」に到達すべき仕方を確かめるに、絶対的な懐疑論を越えてまず最初にわれわれは仮象があるだけ存在への指示があると想定することが出来るし、これは、われわれがはじめて定立せねばならぬといったものではなくして、ただ認めさえすればよいところの『絶対的定立」である。」

うーん、ヘルバルトの「実在」というのはカントの「物自体」と同じなのかな。
実在概念と因果概念を否定したのがデイビッド・ヒューム。

ヘーゲルがカントやヘルバルトと真逆の方向に向かっていることを確認。僕はヘーゲルについてよく知らないので、ヘーゲルの哲学にどのような意味があるのかはよくわからないです。とにかくヘーゲルがカントと全然違うことを主張していることは分かりました。




ショーペンハウアーの教育論が痛烈で(それはカント、ヘルバルト、牧口の認識論、教育論と重なる)、僕の中で葛藤が起きている。どうなっていくのかよく分からないです…。
ショーペンハウアーの教育論は強烈にPA的な体験学習を支持するものだと思う。
自分のことを振り返ると、
この20年間くらい、
書物で培った妄想を修整する日々だったようにも思う笑
夢中でいろいろな資料を読んでいたら、こんな時間になってしまいました。仕事に行かなくては。



朝仕事することに。
もう少し資料を繰り返し読んで、読み進めて考えてみます。
戸田先生の参考書は一つの牧口教育理論に対する応答、表現だと思っていたけれど、
戸田先生の参考書は当時の時代的な制約の中で表現されたものだった。だからその参考書だけを読んでも、その意義は一面的にしか理解できないです。
現代的には牧口教育理論をどのように展開できるのかな。




こんなに詳細な牧口先生の授業案をはじめて見ました。字が難しくて、牧口先生ではない人も書いているのかな。ちょっと何度か読まないとそんなこともまだ区別がつかない状況。その国語科の物語文を教材として授業案。やはり推理式指導読方とは似ているようでだいぶ違う表現。授業と参考書は違う。
http://ci.nii.ac.jp/els/110007149960.pdf?id=ART0009096704&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1454840688&cp=



牧口や戸田の具体的に考えた授業や参考書も参考になるけれど、牧口教育理論に対して、僕は僕の現代的な応答、表現を考えるべきだと思いました。アトウェルの教育実践がとても参考になる。まだもやもやが残るけど、いくつかの資料を印刷して熟読して再考してみようと思う。



カントを誤解する人に対する反論。カントによる自注。
「断じてより高いではない。高い塔とそれに似通った形而上学的に偉大なる人達、この両者には普通に風のあてるものであるが、それは私には当てはまらない。私の位置は経験といふ豊穣な低地なのである。」『プロレゴーメナ』イマヌエル・カント
経験だけでは認識は成り立たないのですが(経験のないところに認識はない)、
ペスタロッチの直観教育論、ヘルバルト、ショーペンハウワー、牧口常三郎に直結するカントの言葉。



教育の合理化を都市計画に例えている。モダニズムhttp://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/850/1/SK000003-16.pdf