吾が住み処ここより外になし―田野畑村元開拓保健婦のあゆみ

吾が住み処ここより外になし―田野畑村元開拓保健婦のあゆみ

絶対に手に入れて読む。
この人、僕たちの命の恩人。


Tさん

今日は、僕にとっての「無人島の10書(1書とは決めかねるので。10書)」の一つ、岩手の田野畑村の開拓保健師、岩見ヒサさんの『吾が住み処ここより外になし』の、編者というか、編集者というかの、鈴木るり子さんところにいってきました。
大槌町にあった家は、津波で跡形もなくなり、肉親、近い親戚のうち7人が津波で亡くなった。
にもかかわらず、震災直後の4月5月に、仲間の保健師さんたちと協力して、悉皆調査(つまり、全員家庭訪問)を行った人です。
どこの避難所に誰がいるか、分からない。遠くの親戚を頼って別のところに住んでいる人もいる。
そのなかで、全員ですよ!
もちろん、血圧などの健康調査もだけど、
住民基本台帳も流されているので、
実際の住民票づくりもしたわけです。
亡くなったと、みんなが思ってた人が、遠くで生きていたり、そんなことも発見したんです。
津波からは助かったけど、津波ですべて流された親戚が、ずっと泊まりに来ていて、家計が苦しいとかも、全部聴き取りをするわけです。
(もちろん、通い続けて、人間関係ができなければ、そこまで複雑なことはしゃべってくれませんから)
最初に、保健師として赴任したところが、北方領土からの引き揚げ者の開拓村で、アイヌの老人とかもいて、その人のところに通い続けたのが原点。
その人は、玄関の扉すらない、稲ワラで出来た家に住んでいて、病で臥せっていたと。
そして、その時、保健師の先輩、この先輩が、有名な根釧台地に通った開拓保健師の大西若稲(わかな)さんで、
当時、国が、根釧台地に、国策としてパイロットファーム(大規模酪農)を作っていて、それがほとんど破綻して、離農する人、自殺する人、また、そこに労働者として、北方領土から引き揚げてきた人たちが住んでいて、そこを大西さんが開拓保健師として担当していた。
そこに、鈴木さんは赴任して、徹底的に、「この人たちを守るのは、保健師しかいない」と、
そして、「都会は、病院がたくさんあるから、少々へたな医師でも、手遅れということはない。しかし、僻地は、医者にほとんどかかれないから、診察、治療が遅れてしまう。
だから、僻地ほど、優秀な医者と優秀な保健師が必要だ。家計の相談、嫁姑のこと、子どもの悩み、なんでも聴いてアドバイスできる、そういう人が保健師だ」と。
大西さんの名前が出てきたとき、びっくりしました。
とても、有名な開拓保健師さんで、零下30度とかのなかを、毎日何十キロもあるいて、一件一件家庭訪問とかをした、開拓保健師の代表みたいな人で、
ああ、あの大西さんが先生だったのかと。
大西さんの強いすすめで、「酪農」の勉強も本格的にやった
なぜならば、エサを与えたり、掃除をしたり、牛の出産の手伝いをしたり、搾乳をしたり、そういう労働を覚えることによって、一年のいつならば、少し閑になるとか、一日の何時ぐらいが、忙しいとか、経済的に、どのころが一番きついとか、精神的にキツイのは、いつだとか、分かるから。
生活の細かいことまで面倒を見ていくということが、保健師の役割であり、
憲法25条を守るということだ、と、鈴木さんは何度も言われていました。

岩見ヒサさんの『吾が住み処ここより外になし』が、平積みになっている、さわや書店、フェザン店。
岩見さんは、漁師さんたちとともに田野畑村原子力発電所が来るのに反対しました。
そして、結局、出来なかったのですが、
その建設予定地は、今回の震災で、福島第一原発よりも、高いところまで津波が来て、もし、建っていたら、完全にやられていた。
使用済み燃料棒とかも、露出し、東日本は住めない状態になったでしょう。