子ども中心か教師主導か

「中心」「主導」

どっちも中心か。


子どもか教師か。


どちらもですね。


「中心」「主導」とかいう問題じゃないと思います。


教師というか、その時の大人の人たちの意図、視点
子どもたちの思い、興味、子どもたちの寄り添う事、子どもたちの視点。
どちらもです。


中心も主導もないって僕は思う。





子ども中心主義の人は教師主導に不満を持っている(僕がそうです、いやそうだったのかな。違う、今も不満も持っている。その主導の内容にだ!!たんなる羅列、馬鹿にするなよ!!いや、気持ちは分かる。安易な方向に流れてしまうのだ。マイクルジャクソンが安易な方向に流れるなと歌っている。でも羅列はないな。)。
教師主導主義の人たちは子ども中心主義に不満を持っている(でも安易な子ども中心は違うなあって思います。)。



でもどちらも違うと思う。重層的?




このレベルの葛藤は、100年以上まえに牧口が乗り越えてる。
もっと前にカントがある意味、乗り越えている。



「蓋し作文は,既に有する思
想を文章的に修述するにあり,正しく文章的に修述せんとせば,文法上の規則に則らさるべからず」(『全集 7』,225 頁)



「人
は無より有を生する能はず。吾人か茲に一文章を作らんとするや。必す先づ過去に
於て学習したる文躰に則り。既習の熟字を集めて之を排列して始めて成効す」(『全 集 7』,308 頁)


この命題は境界にある。読み書きについてだけど。
能動か受動か。その人の境界。



もう決着ついている問題で、正直、どうでもいいかな。こんなところで迷ってちゃいけないと思った。

この命題について考えてみると、反証可能性があっても、反証が難しいです。どうやってもできそうにない。



「直観なき概念は不毛であり、概念なき直観は盲目である」イマヌエル・カント

これもカントが境界の人であることをよく表している。それにどれだけ疑って、反証したり、反論しようとしても難しい。僕にはできない。



「中心」とか「主導」ってのがおかしいのかもしれない。
二つの視点があるだけか。二つの視点はあるけれど、それらがあるだけではないか。
二つの視点があって、どちらも大切だろう。
だから少なくともどちらかではないと思う。


軽重はあるのか。あるな。
子どもに寄り添わないと単なる地獄でしかないじゃん。
全部コントロールしたら、それは独裁主義と何が違う?


いや全部コントロールしても、そのないようはバラ色かもしれない。



関係思考に帰るか。
どちらもであるまではかなり確実。
軽重については、僕は個によりそう人だと思う。だから子どもたちの視点が重い。ただ力を付けるだけでなくて、今の子どもたちの幸せが大事だと思うから。力を付けるという視点についても軽視するつもりは一切ない。訓練か。否定はしないかな。