何かを論じることは、一つの正しさを主張することだからな(哲学は好きだけど、ディベートは好きではない。こういうところから来るのかもしれない。懐疑して吟味して概念や理論、考えが修正されるのは僕として歓迎すること。ディベートの勝ち負けを決めるみたいな単純さが嫌いなのかもしれない。僕は本当のところを知りたいんです)。正しいことは何もない。これも真偽が出る命題。正しいことは何もないし、正しいことはある。これは矛盾しているけれど、真理かもしれない。例えばカントが現象と物自体の2元論(二世界論)で考えたみたいに、ある世界では正しいことは何もないし、認知不能だが、ある世界では正しいことが言える。そんなことも言えるかもしれないし、本当かもしれない。

ある原因について必ず一つの結果が出る。これはどこまで本当だろうか。ニュートン力学は、一定の状況ではかなり正確らしい。アインシュタインの理論は、ニュートン力学をアップデートしたもので、もっと正確に計算できるという話。

ここから言えるのは、ある因果関係の捉えがおかしいなと思ったら(哲学の専門家でもなんでもないけど、哲学の最良の方法は懐疑であるというカントの教えは、哲学の歴史を考えてその通りだと思う)、できることはもう一度、考え直して、その概念や理論を捉え直したり、再創造、作り直すことだと思う。

因果関係というテーマで僕は、知らないことやわからないことがいっぱいあるのだけど、吟味した時に、おかしなものおかしいし、捉えが明らかに狭いものは狭いと分かる。それは、考え続けていること、少しでも学んできたからだ。僕が間違っているかもしれないけれど。

この前のロックランみたいな狭い因果関係の捉え方は、拡張することで、概念をよりよく捉え直すことができると思います。

例えば、パール(2019)は、因果を「変数Yの値がXにどのような形であれ依存してるならば、XはYの原因である」と定義しています。パール曰く、因果とは聞くことのようなものだと思えばよいということ。YはXの言うことを聞き、何が聞こえたかによって値が変わるならば、XはYの原因であると考えます。

ロックランのような狭い因果関係の捉え方だと教育に、教えることや学習は複雑だから因果関係はないとなってしまいます。教育は、複雑で答えはないという話になってきます。それが演繹ということだと思います。実際は、どうでしょう。量的な研究には意味がないのでしょうか。教育は複雑で答えというようなものは何もないのでしょうか。ちゃんと吟味してアップデートできるものは、学術の専門家ならしたほうがいいと思います。

一つの教育研究の団体にリーダーのような人たちがいる。僕は、この捉えで研究をたくさんの人を巻き込んで進めていくのは良くないと思う。綻びや底の浅さが、節節に見えてしまう。

僕が逆の立場で批判してもらえて納得の上で、考えを修正、批正できたら、そのフィードバックと人に感謝しています(生活を振り返って、本当にそう思う)。僕は、僕自身の考えにも、どんなに偉い人の考えにも基本的には、懐疑的なスタンスです。それは、敬愛する牧口常三郎に対しても同じです。自分が信じてきた宗教に対しても同じです。

僕は、宗教がある家庭に生まれて、そういう姿勢が哲学に出会う前から身についてしまったのかもしれない。

僕は自分にも他人にもツッコミを入れ続けているな。自分の外に全部を出さないだけで。自分を嫌なやつだとだとも思うけど、わりと多くの人がそうなんじゃないかとも思っています。

教育の世界に関しては、思っているところが率直にあるな。それでいいの?って。自分が偉いとかなんとかは思ってないけど(僕は僕の持ち場で必死に生きてるという感じかな、僕の実態)、教育の世界は、いいものをいいと見極められない、懐疑し続けるべきところで思考が停止してしまっているとか、そう感じて、考えることがたまにある。何度も繰り返しになってしまうけど、単細胞な、ひどい悪口になってしまっているけど、そういう単純すぎるだけの、複雑に対する最近の批判と矛盾するかもしれないけど、とても嫌いなものがあるのだ。あるときに自分は偉いとは全く思わないけど、偉そうにしている物事に対してルサンチマン的な何か物言ってやりたいみたいな欲望はあるのだと思う。偉そうに何を言ってんだよって、言葉、乱れるけど、思うんですよね。

SNSに関しては、こんなところで議論なんかできないから、それぞれのツイートなどで、それぞれの人がそれぞれの正しさをつぶやているのだと思う。それを踏まえて、色々考えていくのもいいことだと思う。