境界

仮に通性的な(共通する)ところがないとすると、
教育学も心理学も学校も教育も意味がないということになる。

この人間性などの通性的なところを土台に教育や教育学、学校や計画に意味が出てくる。


それと同時に個性というか個々の差異に対する配慮も必要。



通性無視が問題であるということだな、きっと。
通性的なところがなければ、それこそ人間は存在しない。人間の終焉。



デューイみたいにバランス感覚のある人でも、その後に続く人が偏った読み方をして、違った思想を形成したり、デューイの考えとは違う教育実践をしたりすることもある。

苫野さんはデューイが決して新教育を手放しで賞讃するような、片側の人ではないことを指摘していたけれど、その通りだと思う。『経験と教育』を読めば分かるけれど、デューイは新教育にたいして批判(吟味)していた。デューイも境界の人。



メモ
忘れないうちに、
「要するに教育に於ては、自然的なる個性の一般化陶冶から始められ、然る上で個別化を以て集結されなければならぬ。信般の見解をデュルケーム氏は精密に表現している。左に引用する。」『創価教育学体系Ⅳ』p54
自分の結論として、順序はあるのか分からない。通性無視に問題があるということと、あとそれぞれ通性も個性(違い)も同時に考える必要があるんだと思う。実際自分のことを振り返っても、両方とも考えている。

続きはまた後で引用ながいです。