読書 創価教育学体系Ⅳ

要するに教育に於ては、自然的なる個性の一般化陶冶から始められ、然る上で個別化を以て集結されなければならぬ。信般の見解をデュルケーム氏は精密に表現している。左に引用する。
「いかにも往時には何事にも専心することなく、すべてに関心をもち、すべてを愛好し、すべてを理解しえて、文明中に存する優秀なるものをすべて自己に綜合し、ぎ集する方法を発見しようとする者をもって完成人と考えたこともあった。けれども過去には非常に賛嘆された、かかる普遍的教養人ももはや今日の我々に対しては、一つの柔弱にして且つ弛緩せる陶冶たる効果しかもちえない。自然に対して抗争するためには、一層強大な諸性能と一層生産的なエネルギーとを必要とする。我々は活動力が広大な面積に分散されないで、一点に集中され、広さに於て失われるところのものを強さに於て獲得することを欲する。あらゆる業務に一様に役立つような、そして一つの特殊的役割を撰んでそこに止まることを拒むような極めて移動的な才能を我々は蔑視する。我々は自己のすべての性能を単に組織立てたり、鍛錬したりすることにのみ心を労するような人間に対しては、疎隔の感を抱くのである。この種の人間は、その性能を何らあの確定的の用途に使用することなく、またそれを少しも犠牲に供することがない。彼らは各々、あたかも自己自身で満足しなければならぬかのごとく、また一個の独立の世界をつくらねばならぬかのごとく振る舞っている。このような分離的また不決定的態度は、反社会的な何物かをもっていると考えられる。……道徳的理想もまた曾て唯一の単純は没個性的であったものから、漸次多様化しつつある。もはや我々は人間一般の諸特質を自己のうちに実現することをもって全固有の義務であると考えない。より以上義務的なことは、自己の業務に諸特質をもつことであると信ずる。かかる輿論の状態を特に明らかに裏書きする一つの事実がある。これは教育に於て行われつつある、漸次的特殊化の特性である。我々は次第に、我々のすべての子供を悉く一様に生活に進ませねばならぬような画一的教養を受けさせないで、彼らが他日要求されるような種々の機能の見地に立って、彼らがそれぞれに異なった形につくり上げることを必要と判断するようになった来た」(田辺寿利氏訳 デュルケーム「社会分業論」六四項)

創価教育学体系Ⅳ』p54

分業論の文脈で個別化を論じているのか。分業して専門家になっていけば、特殊な能力が必要になるわけだから、個別化されていくのが自然です。


でもパーカーストや自由教育で言われる個別化って、その目的や理由が全然違う。通性的に人は興味・関心があるわけだけど、そのもともとある興味・関心の違いを無視することに無駄や非効率があるということから、パーカーストたちは、個別化に向かっている。


通性的なところは相対的に初等教育ではより重要に、教育の土台になると思う。でも初等教育でも、子どもたちの興味・関心の違いは無視できないし、大事だろうというのが今の自分の結論。