創価教育学体系

四巻をちらっと読むと、
ドルトンプランとかプロジェクトメソッドとかぼろくそ言われている。

もう一度再読してみよう。


一巻
一言でいうと、
教育事実から帰納すること。
帰納した論がまた何度も再現できるようなら、それは教育学としての原理、理論と見なせるし、教育学を科学として樹立することができるのではないかということ。


インタビューやら、会話分析やら研究法がいろいろあるけど、今の質的研究と同じかな?



創価教育学体系 4 (聖教文庫)

創価教育学体系 4 (聖教文庫)

p40
ペスタロッチの開発教授、さらにソクラテスまで遡って、
ソクラテスが知識は伝授するができないと喝破していたけれど、その誤りが改まってないという話。


p42
「虚妄なる個性観」という話
ここも面白い。



「動的教育だの、自由教育などの名称で、一時天下の参観教員を集めた時代があったことはまだ記憶にある所であろうが、今果たして何の面影が残る。ダルトン・プランやプロジェクト・メソッドなどもその通り、単に日本のみならず教育の新流行といえば大概こんなものであった。インチキとは酷であろうが、好い加減の場当たりであったと云われても仕方があるまい。回顧したらまるで狐につつまれた様なものであるないか。それでも当時は遅るることを非常な恥辱としたものである。教育方法に対して如何に渇望して居るか。併しさように安くはお店で卸さぬのが以て察せられるではないか。斯くの如くして暗中模索の不安はいつまでも続くのである。
 それはとも角斯様な教育は学問体系の如何なる地位に存在が可能であるか。世に静的若しくは非動的の教育というものがあるならば、又不自由な教育が成り立ったものならば、一時なりとも存在の権利はあるであろうが、さもない限りは思い付きの経験なる一部分を全体化した虚妄概念に過ぎないこと。恰も随意選題や課題やが綴り方の全体の如くに議論された様なものである。…」p147


このあと続くけれど、今のアクティブ・ラーニングの議論を思い出す。この本が出たのは昭和9年、1934年です。面白いと思います。


苫野さんの本によるとドルトンプランが日本に浸透しなかった一つの要因が確か環境が整っていなかったということ。で、その環境が今は整いつつあることを指摘されていた。



ドルトンプランやイエナプランが問題としているような一斉課題のミスマッチの問題に対して、牧口常三郎は一切答えていないように思う(パーカーストの本は翻訳されてたと思うので、当時流行ったことを考えると牧口常三郎はたぶん読んでるはず)。



静的、非動的というか、網羅的授業やミスマッチなどで心身が枯渇して静かに死んでいくような教育が大学や高校を中心にあって、そこから生まれたのがアクティブ・ラーニンングだということ。



このドルトンプランが非難されてるところ(四巻)ちらっとみて一巻から再読。
それでとんで四巻のこの非難されてるところの前後を少し読んだ。引き続き四巻を再読してみる。


引っかかることがあって、
ドルトンプランがそのまま素晴らしいと手放しで賞讃することもできなくて、いろいろ考えてしまう。



創価教育学体系Ⅳ』
p42
「第二章 教育方法論建築の基礎に横たわる先決問題 第一節 虚妄なる個性観」


「個性過重、通性無視に返り、徒に労力分散、能率低下の原始的方法に逆戻りをなし、そのまた極みは再び個性無視、画一圧制の他の方向への突進を促し、この大振動の外、何物を遺す能わざるに至るを保証しえないからである。」p44


通性的なところが先だということ。
苫野さんのヘーゲルの欲望の本質は自由であるという人間性、通性的なところから考えるのと似ている。


デュルケムを引用する前に
なんと「個別化」p54という言葉も出てきた。
この「虚妄なる個性観」というところ、すごく面白い。


今は苫野さんが指摘するようにもう環境が変わって来ているけれど、牧口常三郎の鋭い指摘は今も通用すると思う。



「独自の研究法を見出せ」p88
ここも面白い。


「児童研究や、心理学から方法を得んとするのは迂遠である。今までの教育者は児童の性質さえ研究しさえすれば、教育法は自ら出て来るものだと考えて居た。そこでそれらの専門家たる心理学者の尻馬に乗って、踊ろうとしてい居たのである。…」p88
児童理解も一要素だけど、教育方法に目を向けるようにというところ。母親や大工の例で説明している。大工は木のことを知るだけでは、不十分だということ。

「哲学や倫理学等に煩わされて、あがいて居るのは更に愚である。それはいくらそれに没頭して思索を重ねた所で、精々教育の目的観について示唆を受けるに過ぎない。たとえ不十分ながらも既に目的な定まった一定の分業中に一身を投じて、職を執って居る教師に対しては、それが役に立つとしても、精々のところは、是迄の目的が妥当であるが否かを検討する参考となる位に過ぎない」p90


自分が今更ヘーゲルなんて読もうとしていることは愚かなのかもしれない。苫野さんや牧口先生が整理して書かれたことで、とりあえず十分かもしれない。




「改革しなければならぬは、教育の方法よりは態度である」という柳田国男の言葉を引用した後。
p113、同じようなことを指摘した人として、デューイ登場。

「研究法の研究こそ、児童の生活を指導する教師の生命であり、…」p124
子どもたとが知識することを指導することが大切だという牧口の考えに直結する。