読書 創価教育学体系Ⅳ

創価教育学体系Ⅳ

「道徳学者は自らの学説をア・プリオリの一原理からではないとしても、一もしくは数個の実証科学、例えば生物学、心理学、社会学等から借り来った若干の命題から演繹し、そして彼等の道徳を科学的のものであると称している。余の採ろうとする方法は、決してこのようなものではない。余は科学から道徳を引き出そうとするものではなく、道徳の科学をつくろうとするものである。この二者は全く異なったことがらである。云々」といって居るが、之はそっくり余の創価教育学の研究に移して差支えはないと思う。余が教育方法を教育学の主眼として研究に於て採って来た方法は、やはり教育事実ということよりは、寧ろ教育技術を研究対象となし、それを観察し記述し、比較し分類して、その因果の法則に達せんとしたのであるからである。
「それ故に、かかる方法に拠るのでは、真に客観的なる結論に到達することができない。先ず第一に、これら一切の演繹の基礎をなす人間の概念は、正しく導かれた科学的推敲の所産でありえない。なぜなら科学は、この点に関し正確に吾々に説明しうるような状態に達していないからである。我々は、人間を構成する要素の若干を識ることから始めるが、しかしかかる要素は、我々が知っている居るよりも遙に多数であり、したがって我々の知っている要素の総和では、極めて不明確な一観念しか作りえないのである。それ故に道徳学者が自己の個人的信念及び個人的着想にまかせて人間の概念を決定するのは非常に危険であると言いうる。のみならず、たといかかる概念が完全に厳密につくられたときでも、推論によって人がそれから引き出す結論は、所詮憶測的のものでしかありえない。工学者が、確定的な理論上の原理から実際的帰結を演繹する場合でも、実際がこれを証明しない間は、彼の抽論の結果に対して彼は信を措くことができないのである。すなわち演繹は、それ自体では到底充分なる論証とはならぬのである。このことに関して道徳学者といえども決して例外なりえないであろう。前述のごとき方法によって道徳学者が定立する諸規準は、それが事実の検証に耐えざる限りは単なる仮定に過ぎない。これらの規準が人間のよく適合するか、どうかは経験のみが決定しうるのである。云々」(デュルケーム「社会分業論」緒論三八頁)

創価教育学体系Ⅳ』p110


牧口先生の考えが分かりやすく表れているところだと思う。

今でもよくある。
例えば脳科学の結論から演繹して教育を考えるとか。
そういう
科学から教育を引き出そうということではなくて、
教育の科学をつくろうとするものだと。

今なら脳科学の知見も参考になりそうだけど、やはり迂遠なのかもしれない。
例えばカリキュラム・マネジメントとか、脳科学とか心理学から出てくるもんじゃない(と思ったけれど、今はそうでもないのだろうか。最近読んだゲントナーやキャシー ハーシュ=パセックの本を考えてもそんなことないか。カリキュラムに影響を及ぼす価値のある研究か)。

教育実践者の研究じゃないけれど、教育方法を比べる実験をする研究はかなり積み重ねがあるようです。



牧口先生って、ショーペンハウワーも読んでたのかな…。それともカントを読むと同じような考えや態度になるのか。
他人の結論を横取りするんじゃなくて、自分で自分の経験から知識を構成しろって、そんな話もあった。どちらにしても自分の経験を省察し知識を構成する必要がある。知識の再構成が必要だということ。ぞのための省察(振り返り)でもある。


たぶん凄く大切なところだと思う。
本でも論文でも大いに学ぶべきだと思う。
でもそれらの知識は自分の経験から再構成しなければ、虚妄の概念だ。