俳句 川柳 想い出

茶番だね病み病み病みー授業研


ある日ある場所の授業研について

自分がわくわくしないような授業研究して何の意味があるのだろう。疲弊するばかりだと思う。
前から思うけれど、自分の授業じゃないのに、自分の授業だと扱われる。不思議。
分け分からん連中の板挟みになって、授業を作ったこともあった。ひとりの偉い人に従って計画していたら、向こうの都合で講師が変わった。新しい講師の偉い人は違う考えで、前の偉い人の指導に従って立てた計画を立て直すことになった。なぜこのような馬鹿げたことに時間を浪費しないといけないのだ。
問題解決型授業とトスの授業の考え方との板挟みになったこともあった。
こんな状況で授業をして、褒められても貶されても、正直どうでもいいです。


僕は自分の授業にも学級経営にも決して自信があるわけじゃないけれど、こういう馬鹿げたことに命を使いたくないです。


「『しかしただの束の間のいのちしかないわれわれ』には限られた学習時間しかないことをつねに心にとどめておかなくてはならない。しかも、この時間が、たんに生命のみじかさによってではなく、日常の業務によってなおいっそう狭く限定されていることに思いをはせるとき、われわれはどのような自分の時間でも、もっと有効につかうことにとくに努めるべきである。流行や気まぐれによってきめられる、なにかの主題の研究に年月をかけるまえに、同じ年月をちがった主題の研究につかったとしたらさまざまに生みだされるであろうところの成果の価値を比較しながら、細かく注意して考察することは疑いもなく賢明である。」『知育・徳育・体育論』スペンサー