こころに刺さります。

初期の仏典から、日蓮まで共通するのは、する論理(丸山まさお!!、また読みたいないな、というか読もう!10年ぶりくらいに!!)。生まれによってではなく、何をしてきたかではなく、今何をしているのかで、その人が決まる。行いによってバラモン(貴い人)になるのだ。仏教というのは、そもそもずっとほんとは人の心を自由にするものだったと思う。そもそもが業論のような人の心を支配する思想との対決から生まれた思想だから、仏教は。そこに反対の人の心を支配する思想、業論がまた混ざってきた。それらを区別できるリテラシーが大切だと思う。

möbius-rebellius
@MobiusRebellius
4月27日

「すごい功徳ある闘い」を何十回も全力で頑張って、それでもまだ罰を受けんとあかんって、いったい何なんでしょう。
それだけ業が深いんだとしたら、地湧の菩薩って悪人ばっかりだったんですねって言いたい。
人の「過去世」を勝手につくるな、人の「現世」を勝手に支配するな

人の「過去」を勝手に創作するな、人の「いま」を勝手に支配するな、
人の「未来」を勝手に閉じるな

「これはあなたの宿命よ」と過去を捏造し、
「宿命転換のために闘いなさい」と現在を支配し、
「まだ業が残っている」と未来の責任を押し付け、それまでの「自己責任」を回避する。

それって、人として、どうなん?

大聖人が、世間の通例の業観を否定したのが、まさに、その世間的な価値を、第一として、そこから過去を推測する世間的価値観の業観でした。
金持ちを謗ったから、エラい人を謗ったから、美しい人を謗ったから、貧乏で、賤しく、醜く生まれるとね。
それ仏法でもなんでもなく、世法です。