一緒(同じ)を完全に手放している学校なんて存在しないと思います。サドベリースクールも同じだろう、見たことはないけれど。調べたり見に行ったりすれば一緒であるところを間違いなく見つけられる自信があります。でもそんなこと興味がないのでしません。
大切なのは、一緒がよりよい時もある事実と、個性化、個別化のように人として違うことを考えて行う教育の手立てがよりよいことがあるという事実であり、それらの事実から境界に立って考え続け行動しようという判断が出てきます。ちなみに一緒を放棄とすると、科学も教育学も放棄することになります。みんな全部ただ違うだけだと科学も教育学も成り立ちません。本当にただの放任になってしまいます。徹底的にみんな違うのだからという視点に立つなら、学校にいく必要はありません。おうちで自由に学べばいいのです。そこにより多様な他者がいる環境が整った学校が良いというのであれば、それは人間の一緒、通性、同じに訴えていることと同じです。学習科学のように、個別化にしても自己調整学習などにしても、成功する条件となる環境を明らかにしてデザインするのも、人間の通性(一緒)に訴えることと同じ(一緒)です。環境を整えてあげれば子どもたちが力を伸ばしていけるという主張が仮にあるとして、その通りだと思うけど、その環境をどう整えるかというのは人間の通性(一緒)から出てきます。苫野さんのメタ理論体系には欠けているけど、教育学(科学)は経済を原理とするものです。学習科学も同じ。知識は経済(節約)です。