ちゃんと読めていないけど(この文章を正確に読むよりも、読んだ機会を通じて考えたいだけなので、すみません)、この筆者があげている写真の本は、多分、1980年代くらいの本だと思う(おそらく個別最適化は今に始まったことではないと批判したいのだ、私と同じで)。僕が持っている本の装丁と似ているから(テーマも)。しかし、このことが流行ったのは、今から100年前くらいも同じことで、それが繰り返され、また繰り返されているということ。
僕からすると個別化、個性化というのは、教育の視点として、必要なことです。
 「この学習があなたに最適だから」云々とあるが、そんな決めつけは、ゾッとしてできない(例えば、分散がいいこともあれば、集中した方がいいこともある。それは、それぞれの人が自分の人生を振り返ればわかることだと思います。その上で基本的に分散学習が優れているということを統計学的に実証されていることを知っていることは大切です(眠っている時の脳の働きからも多分間違いないでしょう)。しかし、それは状況によるのです。寝食忘れるくらいにある時期に狂ったみたいに集中して取り組むことに価値があることもあるのです)。
こういったことが起きるのは、弁証法的なもっと高次元の視点をもたないことが主な原因だと思います。
誤読しているもしれないから、酔っ払っているから、公開範囲を狭めようとしようかと思ったけど、いいや(誤読以前に全部読んでいないから)。仮に誤読していて、修正してくれるような方がいたら、それはありがたいこと。そういうチャンスにもなるかもしれないし。このままにしよう。
牧口常三郎は、個性化の教育の悪弊として、通性無視を指摘した。しかし、通性も個性もどちらも大切なのだ。これを、一方だけが大事であると否定できる人はいるだろうか。僕はどちらの極論にも簡単に実例をあげて反論できると思う。
個性も通性もどちらも考慮して教育を設計することは、基本中の基本だと思います。
この次元で右往左往しているを見ると100年くらいまえから進歩が教育哲学としてないと思います。進歩は、専門的に学問的にあるのかもしれないですが、多くの教育の専門家たちは右往左往していて、滑稽です。こんな今の学習指導要領のアップデートで、改めて個別最適化だなんて、ピックアップされることが心底馬鹿馬鹿しい。個別化、個性化は、通性と同様に、教育を設計する時に必要な視点だからです。
個別最適化に対して通性について述べる人が牧口みたいにどれだけいるのでしょうか。ここでぐらぐらしているのは100年くらい前から教育哲学的に進歩がないということです。