今こそロシアの作家のトルストイや北御門二郎の本を読みたい。自分は、仮にどんどん人々が狂気に陥っていく中で正気(良心)を保つことができるのだろうか。もし保てないとしたら、何のために学んできたのだろうか。
 
戦争は軍人同士であっても、その中身はリアルな殺し合い(さらには、多くの戦場では正気を失った人たちによって民間人が犠牲になってきた)。戦争、侵略という最悪の選択をしないように、できないように環境や人をみんなで育んでいくこと。侵略される側については言葉が出てこないけど、その政治家は小手先ではなく一刻も早く戦争を終わらせることが仕事だと思います。互いに譲歩しあっていかに戦争を早く終わらせることができるか。これが求められること。第二次世界大戦中の日本も、もっと良い選択ができたと思う。そう考えることには意味がある。今がいつもその意味がある時。
 
北御門二郎と一緒に夏目漱石の言葉を思い出します。
「理想を高くせよ、敢て野心大ならしめよとは云はず、理想なきものの言語動作を見よ、醜陋の極なり、理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし、理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学で居る方がよし」夏目漱石
 
「学問は綱渡りや皿回しとは違う。芸を覚えるのは末のことである。人間が出来るのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る。好悪の判然する、善悪の分界を呑み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。」夏目漱石