池田先生の此性(此性はドゥルーズの概念。哲学とは、概念の創造だとドゥルーズは言っていた。フロイトが科学的におかしかったり、ポストモダンの思想家の数学の使い方をおかしかったりすることを指摘していた人がいた。それを吟味できていないのだけど、概念を創造したという意味では、ドゥルーズフロイトも哲学者としての仕事をした人だと思う。フロイトは自分を哲学者と自認していないと思うけど、科学としては微妙なのかもしれないけど思想として大きな仕事をした。無意識の領域については、そのあとの思想や科学に影響を与える深い思索と気づきがあったと思うって、フロイトについては考えはじめてしまった)。正直にいうと、池田先生が晩年、どこまで書いたものに関わっていたのか疑念をもつことがありました。テキスト自体から感じたことなので、それ以外に根拠と言えるとしたら、池田先生の前のテキストとの違いから推理できるかもしれませんし、感じることです。しかし、確たる証拠は知りません。
 池田先生の此性を感じられる時と感じられない、感じにくい時があった(それはテキストが変わっていることもあるけど、それ以上に自分の変化のせいかもしれない。僕はいい意味でも悪い意味でも変わったけど、悪い意味で変わったところを少しでもよく変えられたらと思う)。
それでも、池田先生の此性を感じられるところで、自分が受け止められることを自分の人生の価値創造に生かしていくこと。
それにしても池田先生のテキストを読んだ感じが、美味しい食べ物みたいだと思えるくらいに読み込んでいたので、違和感がすごかった。
先生は変化の人だった。学び続けて成長し続けた人だったと思う。後ろ姿で弟子を導く人だった。正直、そのいい意味での変化をいつからかテキストから感じられなくなるような感じがあった。それが違和感の一つだった思う。
実際は違うのかもしれないけど、嘘を言ってもしょうがないので、自分が正直に感じたことを振り返って考えてみた。時々考えていた問題。なんで考えてしまうのか。やはり先生をはっきり感じられるものを何度も読み返したいからだと思う。