教育学の世界を観察すると、同じことをいろいろな名称で呼び。学問の現在の規範にそれなりに従っているが、それぞれ勝手にやっているということが成り立っている(結果、あえて言うけど、それなりに無駄に複雑でカオスな状況になっているとは思う。ただ単に複雑なことは複雑なままというのは、理論としても実践としてもよくない。大まかに状況に合った良い教育設計を説明できて、また大まかに状況に合った良い教育設計をそれなりの再現性で実践できることが大切。つまり、そういう理論の構築が重要。程度の問題で全く再現性がない、予測できないとしたら、仕事にならない)。

これが数学や物理学とかだったら、そんなことはあり得ないのだろうけれど、教育学では、そういうことが起きている。

数学とか物理学は、ほぼ世界共通言語が使われているけど、教育自体の複雑さもあるだろうけど、教育学で使われるのは、自然言語だからそうなってしまうのかな。

教育学を応用する側から考えると、カオスな状況になっている、それぞれの理論の同じところを見極めていくことが大切だと思う。

その上で教育学の研究を思考や判断の助けにしたり、ヒントにしたりすること。

「ペタゴジー」という新たな概念を提案している本があったけど、デューイの「経験」という概念があれば不要だと思う。経験にペタゴジーは含まれるのと、そういう下位の概念が必要であれば作ればいいけど、別に必要ではない(新しい視点となるわけでもないし、思考と判断の助けにもならない)。必要ないものがあれば無駄に複雑になるだけだ。僕は、その本も、その潮流もいいとは思わない。少なくとも僕には、そのペタゴジーという概念は不要です。

例えば統計学の理論や概念は、こういう良さがあるみたいなことが具体的に言えるけど、ペタゴジーという概念があることで、前と比べて何がどうよくなるのか、視点としてどう新しいのかなど、考えても特にメリットとなるものは思い浮かばない。

いろいろな階層の概念は必要だと思うけど、数学でいうと普遍単位をなんでんもかんでも作るわけではないのと似ていると思う。より認識や思考、判断の助けになるなら概念を新たに作ればいい。でも、複雑になるわりに、そうではないこともあると思う。

普遍単位を作ることは、制限化、限定化することで、経済を原理としている。無限と思えるくらい単位となるものがあって、人それぞれであった複雑さを簡潔にしている。そのことによってより正確に簡単にスムーズにコミュニケーションができるようになる。

質問が良いものか評価するというのもあるけど、概念(理論)に対する評価もある。