学問としての教育学 | 苫野 一徳

同じような問題意識と思考法でもっと優れた仕事が90年くらい前からあります。似ている問題意識で理論体系を提出した人としては、牧口常三郎がいました。

苫野一徳さんの教育学はそもそも科学とは言えないと言われている、教育学は、学問たりうるのかというようなところからはじめて、教育学を科学とする条件はなんだろうかという論の進め方が90年前くらい前の牧口常三郎の『創価教育学体系』という本の論の進め方と同じです。

苫野一徳さんは、自分がはじめて教育学のメタ理論体系を構築したという書き振りでしたが、それは違います。カントの時代に「社会」という概念がなく、今でいう「社会」に関連することについてカントが何も論じていなかったと言えないように、当時、「メタ理論」という概念がなくても、同じ問題について、今でいう教育学のメタ理論体系に当たるものについて論じていたのが牧口常三郎だからです。しかも、牧口常三郎は、自由よりも上位の概念である価値という難しい概念、価値とは何かという問題について、逃げないで対決して論じました。価値には「自由」も「一般福祉」も含まれるのです。「自由」は「利」に含まれる関係概念であり、価値に含まれる関係概念です。

自由という概念で教育の目的を十分に言い表せているでしょうか。教育の目的観念を歴史的に縦断的に探究すると教育の目的観念の変遷の法則性、傾向性を捉えることができます。一つは部分的より全体的に変遷していったということです。教育は、家族であったり、貴族階級だったり部分的なものだったわけです。つまり目的観も部分的だった。そして、全ての人の人格やら、自由やら幸福やら全体的目的観へと変遷していったと。自由がなければ幸福はないと自分も思います。そう考えると自由は幸福の必要条件となる。苫野一徳さんは、幸福は自由と比べて教育の目的として過大だというようなことを論じていたけど、私は自由では教育の目的として不十分だと思います。牧口常三郎が論じた教育の目的としての幸福や価値の方が自由よりも全体的だと言えるでしょう。

細かいですが、p185のアナロジーの説明。「ベース領域」と「ターゲット領域」という概念によるアナロジーの説明は、ゲントナーらのアナロジー(類推)の研究によるものですが、何を参照したのか何もありません。大丈夫でしょうか?

 

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