牧口常三郎

牧口常三郎は日本でも海外でもたぶん誤解されていると思う(予想)。
いや日本でも海外でも間違いないかな。


例えばブラジルだと
野菜を育てて、
学習の最後に料理をして、お家の人にも食べてもらうとか。
創価(価値創造)をすること、これが創価教育だとなっていた。
内容はいいことだと思うけれど、牧口思想の肝心なところが抜けています。
そういう実践はふつうにやられていることだと思います(いいことだと思います)。
価値創造を目指すのは、教育の領域では、意識しなくても、どこでもされていることです。
ただその価値の中身を考えるのが哲学の価値論という領域です。
価値について明らかにするから、どのような知識を教えるべきなのかという正しい判断に繋がるわけです。


牧口先生の『創価教育学体系』は、名前にあると通り、知識体系です。
学習経済を主張する本であり、教育学理論のメタ理論でもあり、プラトンのように教育の目的を論じ、価値を論じ、どのような知識を、どのように教えるべきなのかということを論じた教育学理論の本もある。制度論もある。


この中でも
理論を指導するメタ理論だということが大切です。
マッハの思考経済から来ただろうと言われる、学習経済の思想が肝心だと思います。


創価教育学は一つですが、それを表現する創価教育は無数に存在することができます。その区別も重要だと思います。


つまり、牧口思想の肝心な部分の理解なしに、一部だけピックアップして、創価教育だとなっていないかと懸念します。実際に日本では、牧口先生の人格的な部分を強調して創価教育だとなっている時があるけれど、牧口先生が『創価教育学体系』に表したのは、創価教育学(理論)であって、創価教育ではありません。

教育学 自然科学からの演繹

なぜ心理学や神経科学や脳科学から演繹した教育論の多くが平凡なのか(空しいのか)、原因がいつくか分かった、たぶん。
一つは、いくら心理や神経や脳という対象の、ごく一部について詳しくても、教育や歴史について疎いからだ。だから、教育学上の新しい発見をしたと勘違いしている時がある。


今まであった教育理論を自然科学的に裏付けるという消極的なレベルを超えることが難しい。

新しい新しいといくら主張しても、全然結論は平凡で新しくないということが起きてくる。


価値と没交渉な自然科学を教育の領域でリードするのは、
結局、教育現象を観察し考察する教育学だと思う。

イーガン 牧口常三郎

「わたしの観点は、教育に恩恵をもたらす地道な方法と、もたらさない不可能な方法の選択を、わたしたち自身がおこなう、ということである。わたしたちは、ずいぶん長い間不可能なことをおこなってきた。しかし、いまや転じて、地道につとめる時である。」『教育に心理学は役に立つか』イーガン


「経験より出発せよ。/価値を目標とせよ。/経済を原理とせよ。/学習に於て、時間に於て、費用に於て、言語に於て、音声に於て、常に経済原理を旨とし、文化価値を目標として進め。/天上を仰いで歩むよりは、地上を踏み占めて、一歩一歩に進め。」『牧口常三郎全集第五巻』牧口常三郎


両方とも地道にということだけど、意味がだいぶ違う。
牧口先生の「地上を踏み占めて、一歩一歩に進め。」というのは、「経済を原理とせよ」という言葉と表裏一体です。


例えば、ある工場では、10分間でネジを100個つくることができたが、ある工夫をすることによって、同じ時間で101個ネジを作れるようになった。

同じようなことが教育現場でも起きる。ある工夫を加えることで、今まで一時間かけないと達成できなかったことが半分くらいの時間で達成できるようになるとか。


僕は牧口先生の創価教育学をふわふわとした漠然としたものではなく、このように理解しています。


この点はものすごく重要だと思う。
時間や苦痛などのコストを節約できることによって、もっと他のことができるようになる。
経済を原理とせよというのは、子どもの学習にも、教えることにも適用されます。
教師にも時間が生まれることで、さらに工夫ができるようになります。


余暇がなければ学問の発展は決してありません。イノベーションも起きようがありません。

ぼく潔く寝よう

想像力と教育: 認知的道具が培う柔軟な精神

想像力と教育: 認知的道具が培う柔軟な精神

これ買おう。

持続可能な社会か。
そこから逆算すれば確かに教育は変わるかもしれない。


現在の社会ではなくて、
どのような社会を創りたいのかというところから考えないと、
前からよく思うけれど、必然的に後手になてしまう。