さいこんたん

最近、『菜根譚』という本を読みました。中国明代の末期に儒・仏・道の三教を兼修した洪自生が残した箴言集です。


<抜書きと感想>
 

 人格が才能の主人で、才能は人格の召使いである。才能だけがあって人格の劣ったものは、家に主人がいなくて、召使いが勝って気ままにふるまうようなものである。どんなにか、もののけが現れて、暴れまわらないことがあろうか。(前集一三九)


 最近、売れている『国家の品格』という本で藤原正彦が、情緒がなくて論理的思考能力に優れている人は最悪であると主張していました。

 藤原正彦は『祖国と国語』で
「論理というものは、単純化すると、AならばB、BならばC、CならばDと続き、Zまで行くものである。Aを出発し、論理の鎖を通り結論のZに達することになる。Aは出発点だから当然、論理的帰結ではなく仮説である。論理は必ず仮説から出発することになる。
 この仮説は通常、多くの可能性の中から、その人の価値観、人生観、世界観、人間観といったものより選ばれる。そしてこれらの基底となるものが、先ほど述べたような教養や情緒、宗教といったものなのである。」と述べています。

 いろいろな主張を正当化するために、人は様々な論理を振り回すけど、その根っこにあるものを見つめることが大事だと思った。


 水は波さえ立たなければ自然に静まるものであり、鏡はちりやほこりで曇らなければ自然に明らかなものである。そこで、人の心も無理に清くすることはない。その心を濁らすものを取り去れば、本来の清さが自然に現れてくる。楽しみも必ずしも外に求めて行かなくともよい。その心を苦しめる雑念を取り去れば、本来の楽しみが自然に生じてくる。(前集一五〇)


 人格は事業の基礎である。基礎が堅固でなくて、その家屋が長持ちするためしはない。心は子孫の根になるものである。根がしっかりと植えられていないで、その枝葉が茂るためしはない。(前集一五六)


 自分の功績に得意になり、自分の学問を見せびらかすのは、みな自分以外の外の物にたよって人間として生きているにすぎない。この人たちは知らないのだ、心の本体が玉の輝くように明らかで、本来の光りを失わなかったならば、たとえ少しの功績もなく、一字も読めなくとも、正々堂々たる人間として生きて行けるということを。(前集一八〇)


 中傷したり悪口を言う連中は、ちぎれ雲が太陽を一時おおい隠すようなもので、やがては真実がひとりでに明らかになるものである。だが、こびへつらう手合いは、すきま風が膚を冷えさせ風邪をひくようなもので、いつとはなしにわが身を損なわせるものである。(前集一九〇)


 小鳥のさえずりや虫の鳴き声も、すべて宇宙にあまねく満ちわたる真理を、以心伝心に伝えている秘訣であり、赤い花びらや緑の草の色も、すべてこの真理を現わした文章でないものはない。そこで学問に志す者は、常に本心のはたらきを澄みとおらせ、胸中を少しの曇りもない玉のようにして、物に触れて聞いたり見たりする毎に、この宇宙の真理を心に会得するところがなくてはならない。(後集七)


こういう感性、姿勢は好きです。ゲーテみたい。

 
 世間の人々は、ただもう「我」という一字を、あまりにも真実なものと考えすぎている。それで、いろいろな好みや煩悩が多くなっている。古人も言っているが、「我のあることも知っていないと、どうして、(その我に対してある)物の貴いことを知ることができようか」と。また言うに、「わが肉身は(仮身であるから)、我ではないことを知っておれば、煩悩などどうして我を悩ますことがあろうか」と。これらは真理を看破した名言である。(我にして我にあらずの真理を看破している)。(後集五十六)


 この心の上に波風させ立てなければ、(心は動揺せず)、いつも青い山々や緑の木々に囲まれた心境になれる。また、この本性の中に万物を生育するはたらきを自覚すれば、どこででも魚踊りとび飛ぶの活発な生意を見ることができる。(後集六六)


 やっと筏(いかだ)に乗ったと思うと、もう筏を降りる算段をする人であってこそ、十分に悟りをすました人である。(筏は彼岸に達するための乗物で手段に過ぎないから。これと反対に)、ろばに乗っていながら、そのろばを捜し求めるようでは、結局、悟れぬ禅僧である。(己自身に具足する仏性を見ようとせずに他に求めているから)。(後集七十二)


 諸法の実相である真空は、単なる空無ではない。現象に執着して、それを唯一の実在であるとするのも真実ではなく、反対に現象を破邪して、それは全くの虚妄であるとするのも真実ではない。しからば釈尊は、これについてどのように述べられているか。「世間にあって出世間であれ」と。物欲に捕らわれてるのも苦であり、さればとて物欲を断ち切るのも苦である。そこが我々各自の修養しだいである点である。(後集七十九)