神から出発するこころみ

私はついに決心した、(中略)それが見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享楽できるような、何かそういうものは存在しないかどうか探求してみようと。(スピノザ『知性改善論』第一段、上野修訳)

地獄を転がり続けた十代後半の僕を救ったのは、神から出発する試みでした。

彼がライプニッツに語ったと伝えられる「世間一般の哲学は被造物から始め、デカルトは精神から、私は神から始める」という言葉もこうした彼の信念を述べたものと見られる。つまり彼は直観としての「思惟する自我」を認識の出発点としたデカルトの立場を不備なものとして排撃し、『知性改善論』で立てた自らの原則に従い、同じく直観としての「神の観念」をその出発点としたのであった。(スピノザ『エチカ(倫理学)上』訳者解説、23項、岩波文庫

光が光自身と闇とを顕すように、真理は真理自身と虚偽との規範である。(スピノザ『エチカ(倫理学)上』145項、畠中尚志訳、岩波文庫

感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。(スピノザ『エチカ(倫理学)下』7項、畠中尚志訳、岩波文庫

最善の論拠の上に立っている者が必然的に最善の信仰を持っているのではなく、むしろ正義と愛に関する最善の行為を示す者が最善の信仰を有するのである(スピノザ『神学・政治論』畠中尚志註『思想の自由について』理想社

その人の行為が善であれば、たとえ信条において他の信仰者たちと違っていても、やはり信仰者であり、反対に行為が悪であれば、たとえ言葉においては他の信仰者たちと合致しても、やはり不信者なのである(スピノザ『神学・政治論』畠中尚志註『思想の自由について』理想社

賢者は賢者として見られる限り、ほとんど魂を乱されず、自己・神および事物たちをある永遠なる必然性でもって意識し、かく在ることを決してやめず、つねに魂の真の平安を有している(スピノザ『エチカ』最後の備考、上野修訳)

スピノザ哲学の大きな理論的テーゼ―すなわち、実体はただひとつであり、それが無限に多くの属性をもつのだということ、神とはこの自然そのものであり(神すなわち自然[Deus sive Natura])、いっさいの「被造物」[森羅万象]はそうした属性のとるさまざまな様態、すなわちこの実体の様態的変様にすぎないのだということ(G.ドゥルーズスピノザ』)