インドラネット

インドラネットとはインドラ=帝釈天(たいしゃくてん)、ネット=網、つまり帝釈天の網を意味します。これは縁起の考え方を比喩的に説明したものです。この美しい譬えが好きです。

 「仏典には、多様な相互依存性をあらわす美しい譬えが記されております。
 生命を守り育む大自然の力の象徴でもある帝釈天の天宮には、結び目の一つ一つに、「宝石」が取りつけられた「宝の網(あみ)」がかかっている。その、どの「宝石」にも、互いに、他のすべての「宝石」の姿が映し出され、輝いているというのであります。
 アメリカ・ルネサンスの巨匠・ソローが観察しているように、「われわれの関係性は無限の広がり」をもっております。
 この連関に気づく時、互いに生かし、生かされて存在する「生命の糸」をたどりながら、地球の隣人の中に、荘厳な輝きを放つ「宝石」を発見することができるのではないでしょうか。
 仏法は、こうした「生命」の深き共感性に基づく“智慧”を耕しゆくことを、促しております。なぜならば、この“智慧”が、“慈悲”の行動へと連動していくからであります。
 それゆえ、仏法で説く“慈悲”とは、好きとか、嫌いという人間の自然な感情を、無理やりに抑えつけようとすることでは決してありません。
 そうではなく、たとえ嫌いな人であったとしても、自身の人生にとっての価値を秘めており、自己の人間性を深めてくれる人となり得る。こうした可能性に目を開きゆくことを、仏法は呼びかけているのであります。
 また、「その人のために何ができるか」と真剣に思いやる“慈悲”の心から、“智慧”は限りなくわいてくるというのであります。」(池田大作「『地球市民』 教育への一考察」より抜粋)

「縁りて起こる」とあるように、人間界であれ、自然界であれ、単独で生起する現象は、何もない。万物は互いに関係し合い、依存し合いながら、一つのコスモスを形成し流転していく。

ゲーテの言葉「あらゆるものが一個の全体を織りなしている。一つ一つがたがいに生きてはたらいている」(大山定一訳、『世界古典文学全集』50所収、筑摩書房

社会現象であれ自然現象であれ、何らかの「縁」によって「起」こってくるのであり、それ自体のみで存在するものは何もない。これを一言にしていえば、「すべての事実は関係性のなかに生ずる」と言い換えてもよい。