方法

最近「方法」について考えたこと


スピノザは、もし人がはじめから素直に真理の規範に従う幸運に恵まれていたなら方法は不要であっただろうとも言う。もしそうだったら、「すべてはひとりでにその人に流れ込んできたであろう」。しかしこういうことはまず起こらないので、方法というプロセスがどうしても必要となるのだと。(『スピノザの世界』上野修講談社、43項)

俺もここらへんに、数学や論理学、科学的アプローチ、宗教や儀式、組織など方法が生まれる必然性があると思いました。あと目的に対して手段や方法に優劣があることもはっきりしています。例えば川を渡るという目的に対して方法(橋がいいのか船がいいのかとか、どの橋どの船がいいのかとか)に優劣があるように、真理に至る方法にも差別があり優劣があります。

観察によって自然の振る舞いを貫く法則を言語化する方法があります。たとえばニュートン万有引力を数学的に定式化し、それに基づいて惑星の軌道を幾何学的に説明しました。では、どのような原因で万有引力は生まれたのか。自然科学は観察によって自然がどのように振舞うのかということを記述できても、その法則自体を生み出した原因を問うことに馴染みません。一神教は神の創造であると説明する。たぶんスピノザだったら神(スピノザの神は一神教の神と違います)に内在する力であると説明します。

また僕たちは観察によって、なぜ子どもが生まれてくるのか因果関係を記述できます。でも生まれてくるということを自分自身の生に引き戻して考えたらどうだろう。気付いたら物心がついて、この世界にいた。なぜ自分が、この時代にこの場所に、この両親のもとに生まれたのだろう。こういった問題も観察による自然科学的な方法は馴染むことがないです。インドのある思想は業(行い)で説明します。たぶん一神教だったら、神の思し召しであると説明するのだろう。


スピノザの世界観は汎神論と呼ばれています。
汎神論の定義 
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C8%C6%BF%C0%CF%C0&kind=jn&kwassist=0&mode=0 
三省堂提供「大辞林 第二版」より

一神教の神は世界を超越して、この世界の製作者であると考えますが、スピノザの場合は世界が神の顕現である、または変化であると考えます。

最初、真理はどの方法も超越していると書いていたけど、もう少し考えたら、方法は歴史的だけど、真理を超越していないという立場に変わりました。方法が導く真理と、その方法は別だけど、つながっているということに気付きました。例えば、三角形の三つの角は二直角に等しいという普遍的な真理は論証という方法とつながっています。論証が生まれたのは、それほど昔のことじゃなく歴史的なものだけど、方法は真理を超越してないです。方法と真理は別だけど、方法が真理を超越しているとは言えないです。書きながら、考えたら、間違いが正され、不明瞭が明瞭になりよかったです。少なくとも真理(すべてのとはいえないです。知ることのできる一部です。知れるということは、方法があるということになるのか。)がすべての方法を超越しているという判断は間違ってます。