ペスタロッチ

◎大教育者◎
ペスタロッチ
山本伸一

一、 尊い塑像

 平和な国スイス。スイスという名前を聞いただけで、私達の心は、あの雄壮なアルプスの山々につつまれた、絵のような静かな国を思い出さずにはいられません。
 今から約百五十年前、このスイスがあの有名な大教育家ペスタロッチを生んだのであります。
 今日もスイスのイーフェルドンには、ペスタロッチを記念した一つの塑像が建てられて居ります。そして、その台石には次の様な文字が書かれてあります。
「ニューホーフにおいては貧者の恩人、スタンツに於ては孤児の父、ブルクドルフに於ては国立学校の創立者、イーフェルドンに於ては人民の師……人の為には万事を尽し、己れの為には何ものをも止めず」と、それが実にペスタロッチの一生を物語って居るものであります。ああなんと尊く偉大な大教育者の姿でありましょう。

二、 見込みのない少年

 ペスタロッチは、子供の時から非常に人々と変つた性格を持つていました。その顔や姿もいかにも醜く、友達からは、いろいろとからかわれたり軽蔑されていました。
 それに学校の成績も大変悪く、ことに綴方や習字は、だめでした。学校の先生もあまりにも成績が悪いので「この子は到底見込みがない」と、口ぐせの様にいつていました。
 この様に、友達から馬鹿にされ、世間の人々からは奇人扱いにされ学校の先生からは見はなされてしまったペスタロッチ…… 
 皆さん、もし皆さんがこの様な境遇にあつたらどんなに悲しく淋しいことでしょう。又その人の心も自然にひねくれるのが当然です。けれどペスタロッチはそんなことにかかわりなく、すくすくと素直に育つてゆきました。それは全く情愛に厚い母と、温情に富んだ老婢バビリーのお陰でありました。
 ペスタロッチは六歳の時に父を亡くしましたが、もしも母が良くない人であったならペスタロツチはどうなつていたことでしょう。
 ここに母の感化の偉大さをしみじみと悟ります。

三、 失敗また失敗

 ペスタロツチは、小学校も成績が悪かったのですが、中学校も大学校も余り良い成績ではありませんでした。大学を卒業したペスタロッチは、最初はなになにならうと思っていた事でしよう。それは少年の時、祖父の所に遊びに行つていた時、先師である祖父の信義の立派なことに関心し、牧師になることを決心していました。けれどもはじめの説教に失敗してしまって、これでは到底見込みがないとあきらめてしまいました。

 牧師をあきらめたペスタロツチは今度は、法律家になろうと心にきめました。がこれも試験の際、遂に失敗に帰してしまいました。
 とうとうみんなあきらめて「自分は、とても学問で身を立てる事はだめだ、そうだ百姓になろう」といつて、ニューホーフという所で農業をやることにきめました。この時はペスタロツチが二十三歳の時でした。しかしずいぶんお金をかけ骨を折つたがやはりこれも思う様にゆかず、収入は全くたえてしまいました。
 
四、 ここに天職あり

 ペスタロツチは大変に子供が好きでした。思う様にゆかぬ百姓のかたわら、子供を集めて一緒に遊ぶことがなによりの楽しみでした。
 その時ペスタロツチは気がついたのであります。「そうだこんなにも貧乏で学校に行かれない子供がいるのだ、この子供達のために教育をしよう」。それで二十人ばかりの子供を集め、自分の費用で教育をはじめました。
 これがペスタロッチの大教育者になつた第一歩であります。なんと単純でありながら崇高な歩み方でありましょう。
 栄養不良と虱ばかりの乞食の様な子供の中で、ペスタロツチの教育は始まりました。そして自分が行う所を子供達に見習わせ、子供と共に畑に出てはこれを耕し、雨の日は家の中で綿を紡がせ昼夜真剣に、みんなを人間にするために力を注ぎました。身体の弱いものは強くする様に、無作法な子には行儀をなおし、心の僻んだものには、心をなおしてやる様に尽しました。そして心を浄く正しく持たすために聖書を暗誦させました。
 苦しい生活のうちにも子供達には良い物を食べさせ、自分はいつも悪るい所を食べました。ですから子供達は、日ましに健康になり血色が漲りぐんぐん成長してゆきました。

五、 五十三歳で認められる

 ペスタロツチの生活は一日々々苦しくなり遂に全く乞食同様になつてしまいました。
 すると世間の人々もペスタロツチから遠ざかつてゆきました。が、そんな事には気にかけず、ますます教育の尊き重要さを考えて子供の為に尽しました。
 いつの世でもこの様な心構えこそ偉人を作り上げる基いです。のちに、ペスタロツチは、無一物になつてしまつたので色々職場を探しましたが、元来不器用な彼れには、適当な所がありませんでした。
 それで、その貧乏の中で雑誌社に売る原稿を書く事にきめました。ですが書く紙もなかつたのです。それで道端に捨てられた紙ぎれを拾つて書いたりしました。これは有名な「リーエンハドとゲルールード」という物語りであつたのです。
 やつとの事でこの原稿を売り生活も楽になつて来たのです。この費用をつかつて更に教育に身を捧げ五十三歳の時、遂に社会的にも認められ、教育界からも重んぜられる様になりました。これより全ヨーロッパの人々も彼の教育を見習う様になり世界の歴史の上に大教育者としての頭を擡げたわけであります。
 人類の進歩には最も教育が大切であります。
 立派な教育がなくしてなんの人類の発展がありましようか。

『少年日本』十月号より


久しぶりに恩師の処女作を読んだ。昭和二十四年(一九四九年)、二十一歳の時の作品。これをはじめて読んだ時は、とても励まされたし、昔からほんとうに大事なところが、ずっと変わらない方なんだと思い嬉しかった。