君たちはどう生きるのか

「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。樹木は、自分をあわれだとは認めない。なるほど、「自分をあわれだと認めることが、とりもなおさず、あわれであるということだ」というのは真理だが、しかしまた、ひとが自分自身をあわれだと認める場合、それがすなわち偉大であるということだというのも、同様に真理である。だから、こういう人間のあわれさは、すべて人間の偉大さを証明するものである。……それは、王位を奪われた国王のあわれさである。」
 「王位を奪われた国王以外に、誰が、国王でないことを不幸に感じる者があろう。……ただ一つしか口がないからといって、自分を不幸だと感じるものがあろうか。また、眼が一つしかないことを、不幸に感じないものがあるだろうか。誰にせよ、眼が三つないから悲しいと思ったことはないだろうが、眼が一つしかなければ、慰めようのない思いをするのである。」(パスカル
 本来王位にあるべき人が、王位を奪われていれば、自分を不幸だと思い、自分の現在を悲しく思う。彼が、現在の自分を悲しく思うのは、本来王位にあるべき身が、王位にないからだ。
 同様に、片眼の人が自分を不幸だと感じるのも、本来人間が二つの眼を備えているはずなのに、それを欠いているからだ。人間というものが、もともと眼を一つしかもっていないものだったら、片眼のことを悲しむ者はないに違いない。いや、むしろ二つ眼をもって生まれたら、とんだ片輪に生まれたものだと考えて、それを悲しむに相違ない。
 コペル君。このことを、僕たちは、深く考えて見なければいけない。それは僕たちに、大切な真理を教えてくれる。人間の悲しみや苦しみというものに、どんな意味があるか、ということを教えてくれる。
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 僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子供なりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会う。もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。しかし、こうして悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどうものであるか、ということを知るんだ。
 心に感じる苦しみや痛さだけではない。からだにじかに感じる痛さや苦しさというものが、やはり、同じような意味をもっている。健康で、からだになんの故障も感じなければ、僕たちは、心臓とか胃とか腸とか、いろいろな内臓がからだの中にあって、平生大事な役割を務めていてくれるのに、それをほとんど忘れて暮らしている。ところが、からだに故障が出来て、動悸がはげしくなるとか、おなかが痛み出すとかすると、はじめて僕たちは、自分の内臓のことを考え、からだに故障が出来たことを知る。からだに痛みを感じたり、苦しくなったりするのは、故障が出来たからだけれど、逆に、僕たちがそれに気づくのは、苦痛のおかげなのだ。 
 苦痛を感じ、それによってからだの故障を知るということは、からだが正常の状態にないということを、苦痛が僕たちに知らせてくれるということだ。もし、からだに故障が出来ているのに、なんにも苦痛がないとしたら、僕たちはそのことに気づかないで、場合によっては、命をも失ってしまうかも知れない。実際、むし歯なんかでも、少しも痛まないでどんどんウロが大きくなってゆくものは、痛むものよりも、つい手当てがおくれ勝ちになるではないか。だから、体の痛みは、誰だって御免こうむりたいものに相違ないけれど、この意味では、僕たちにとってありがたいもの、なくてはならないものなんだ。――それによって僕たちは、自分のからだに故障の生じたことを知り、同時にまた、人間のからだが、本来どういう状態にあるのが、本当か、そのことをはっきりと知る。
 同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることが出来る。
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 人間が本来、人間同志調和して生きてゆくべきものでないならば、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることが出来よう。お互いに愛しあい、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎みあったり、敵対しあったりしなければいられないから、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ。
 また、人間である以上、誰だって自分の才能をのばし、その才能に応じて働いてゆけるのが本当なのに、そうでない場合があるから、人間はそれを苦しいと感じ、やり切れなく思うのだ。
 人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは、人間がもともと、憎しみあったり敵対しあったりすべきものではないからだ。また、元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ。
 およそ人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じるということは、人間が本来そんなみじめなものであってはならないからなんだ。
 コペル君。僕たちは、自分の苦しみや悲しみから、いっても、こういう知識を汲み出して来なければいけないんだよ。
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 もちろん、自分勝手な欲望が満たされないからといって、自分を不幸だと考えているような人もある。また、つまらない見えにこだわって、いろいろ苦労している人もある。しかし、こういう人たちの苦しみや不幸は、実は、自分勝手な欲望を抱いたり、つまらない虚栄心が捨てられないということから起こっているのであって、そういうそんな自分勝手な欲望を抱いたり、つまらない見えを張るべきものではないという真理が、この不幸や苦痛のうしろにひそんでいる。
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もっとも、ただ苦痛を感じるというだけならば、それは無論、人間に限ったことではない。犬や猫でも、怪我をすれば涙をこぼすし、寂しくなると悲しそうに鳴く。からだの痛みや、飢えや、のどの渇きにかけては、人間もほかの動物も、たしかに変りがない。だからこそ僕たちは、犬や猫や馬や牛に向かっても、同じくこの地上に生まれて来た仲間として、しみじみとした同感を覚えたり、深い愛情を感じたりするのだけれど、しかし、ただそれだけなら、人間の本当の人間らしさはあらわれない。
 人間の本当の人間らしさを僕たちに知らせてくれるものは、同じ苦痛の中でも、人間だけが感じる人間らしい苦痛なんだ。
 では、人間だけが感じる苦痛とは、どんなものだろうか。
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からだが傷ついているのでもなく、からだが飢えているのでもなく、しかも傷つき飢え渇くということが人間にはある。
 一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれれば、僕たちの心は眼に見えない血を流して傷つく。やさしい愛情を受けることなしに暮らしていれば、僕たちの心は、やがて堪えがたい渇きを覚えて来る。
 しかし、そういう苦しみの中でも、いちばん深く僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番つらい涙をしぼり出すものは、――自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振りかえって見て、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らくほかにはないだろうと思う。
 そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言訳を考えて、自分でもそう認めまいとする。しかし、コペル君、自分が誤っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ。
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 人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか。
 僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうではなく行動することも出来たのに――、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに、――、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。
 自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。「王位を失った国王でなかったら、誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう。」正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流したりしないのだ。
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 人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したとうい意識は、僕たちに苦しい思いをさせずにはいない。しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自分を汲み出してゆこうではないか。――正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。
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 「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目覚めに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、私は見たことがある。」
 これは、ゲーテの言葉だ。
 僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
 だから誤りを犯すこともある。
 しかし――
 僕たちは、自分を自分で決定する力をもっている。 
 だから、誤りから立ち直ることも出来るのだ。
 そして、コペル君、君のいう「人間分子」の運動、ほかの物質の分子の運動と異なるところも、また、この点にあるのだよ。

吉野源三郎『君たちはどう生きるのか』より