パレアナ遊び

少女ポリアンナ

少女ポリアンナ

いつも“心の笑顔”の人に

 さて人生にとって「心」の姿が、どれほど大切であるか。「心」ひとつで、どんなに自身を、また周囲をも変えていけるか。同じ条件、境遇でも正反対の人生にさえなっていく。
 このことを、アメリカの女性作家エレナ・ポーター(一八六三−一九二〇年)の名作、『少女パレアナ』(村岡花子訳、角川文庫)をとおして、少々お話したい。
 これは、アメリカでは知らない人はいないという小説である。日本でも、テレビアニメ「愛少女ポリアンナ物語」として放映されたようだ。
 ――幼くして両親を亡くした少女パレアナは、母の妹である叔母のもとに引き取られる。叔母は裕福だが、「心の乾いた」女性であった。姪を引き取ったのも、決して「愛情」からではない。彼女が人生でもっとも大切にしている「義務」からであった。引き取らなければ、世間体が悪いという気持ちであった。
 彼女のように、心はずむ夢やみずみずしい情愛、感動を失い、“仕方がないから”と、人生を義務感によって生きている人は少なくない。
 ところがパレアナには、亡き父親と約束した、ある「ゲーム」があった。それは「何にでも“喜び”を見つける遊び」である。
 たとえば、パレアナが駅に到着した時、叔母は迎えにも来ない。少女にとって、未知の土地である。不安もある。期待もある。普通なら、“どうして来てくれないのかな”と悲しみ恨むかもしれない。しかしパレアナは、代わりに来たメードのナンシーに言う。
「叔母さんが迎えにきてくださらなかったのがうれしいの。だって、まだこのあと叔母さんに会う楽しみがあって」(前掲書、以下、引用は同じ)と。
 彼女は、心からそう思おうとしているのである。
 叔母の家に着く。そこでも少女は、まことに冷たく迎えられる。立派な部屋が他にたくさんあるにもかかわらず、なんにもない屋根裏部屋があてがわれてしまう。いったん、すばらしい部屋に胸おどらせたパレアナの失望は大きかった。夢多き少女にとっては当然のことであろう。
 しかし、ひとたびはがっかりしたものの、パレアナはまた気を取り直す。(中略)
 なんにもない部屋。これをどう喜ぶのだろうか。彼女は思う。“かえって片づけが早くすむからいいわ”――。(笑い)
「鏡のないのもうれしいわ。鏡がなければ、ソバカスも見えませんものね」(笑い)
絵もない部屋――。しかし屋根裏から見える風景に、「あんないい景色があったら、絵なんか見ないでいいわ。叔母さんがこの部屋をくださすってうれしいわ」と。
 一事が万事、パレアナは、つらい境遇のなかにあって、一生懸命「喜び」を見つけようと努力する。
 
 “喜びを生み出す”人生を

この「パレアナ遊び」は、「喜ぶことをさがしだすのがむずかしいほどおもしろい」と彼女は言う。
 この遊びがしだいに広まっていく。皆、パレアナがいつも明るくて、「喜び」に輝いているので、大好きになったからである。
 町には、「グチ」のかたまりのような、病身の婦人もいた。彼女は「月曜日になりゃ日曜日だったらいいって言うし、牛肉のゼリー寄せを持っていけば、きっとチキンのほうがよかったと言う」
(笑い)ような女性である。似た人が思い浮かぶ方もいらっしゃるかもしれない。(笑い)
「いつでもそこにないものばかりを欲しがる癖がついてしまったので、さて、いまなにをいちばん欲しいかということをはっきり、すぐ言うとなると、どうしても言えない」人間だった。
 パレアナはどう考えたか。だれでも月曜日の朝はいやなものである。では、それをいったい、どう喜べばよいのか。彼女は悩んだ。そして言った。
「一週間のどの日より月曜日の朝、喜んでいいと思うわ。だって、次の月曜日が来るまでに、まる一週間あるんだもの」〈笑い〉
 病気のせいで頑なになった婦人の心も、パレアナの励ましと明るさに、しだいにほぐれていく。自分にはとにかく自由に動かせる「両手と両腕がある」ことを喜び、積極的に編み物を始めるまでに変わる。
 その他のエピソードは略させていただくが、この調子で少女は周囲を変えていく。叔母さんの冷たい心も、また若い日の失恋以来、偏屈になった中年男も、パレアナの「喜びの光」にあたためられ、心をとかされていった。やがて町中が、パレアナという一人の少女の力で、生まれ変わっていったのである。(拍手)

パレアナは、どんな人に会っても、何かしら、「うれしいこと」「喜べること」を見つけた。だれだって、自分に会って心から喜んでいる相手に対し、悪い気持ちを持ち続けることはむずかしい。だから皆、いつしかパレアナの味方になった。 
 心は不思議である。心は微妙である。こちらが悪い感情をいだいていると、たいていは相手にもそれが伝わっている。こちらが笑顔の思いで接すれば、相手にも微笑みの心が宿る。こちらが粘り強く手をさしのばせば、相手もいつしか手をさしのばす――相手はいわば、自分にとって「鏡」のような存在なのである。
 パレアナは、自分がまず心から「喜ぶ」ことで、「鏡」である相手からも、少しずつ「喜び」を引き出していった。
 また、どんな人に会っても、“すばらしい人だ”とまず決めて、その“信頼”を率直に表現した。だから多くの人が、なんとかその信頼に応えようと動いた。
“あの少女のようになりたい”――見えない「心の力用」が、人々の心を揺さぶり、大きく開花させていったのである。

 パレアナのように「何でも喜びを見いだす」ことは、のんきな気休めではない。「義務」感や「グチ」で日々を灰色におおうよりも、よほど創造的な“強さ”が要求される。
 また「何にでも喜びを見いだす」――これは、一歩間違えれば、たんなる現状肯定の、お人よしになりかねないかもしれない。
 それはともかくとして、同じ一生であるならば、喜んで生きたほうが得である。同じ行動をするのなら、楽しんで行動したほうが価値的である。

池田大作全集』73巻所収のスピーチより