教育の光

人生の先輩にぜひ読んでいただきたいと
メールをいただき、池田大作著『希望の世紀へ 教育の光』を再読。
前に、一回通して読んだだけで、ほとんど忘れていました。印象的だったところメモ。

まず深い精神性をたたえた書物に親しむ機会、習慣を増やしていこうというお話。

「第一に読書経験は人生経験の縮図であり、良書との格闘によって得られた精神的な力は、その後の人生の坂を登っていく上で限りない財産となる。若いころに、それが習慣化されれば、いっそう意義深いであろう。」

「第二に、読書で得られた力はバーチャル・リアリティーの刺激から”魂”を守る障壁となる。読書は、作者と読者の対話に帰着するのであり、対話を通じて発言する内発的精神性、宗教性に勝る力はないのである。」

「第三に、読書体験は大人たちの全人格をかけた受け止め方、感動を通して語り合い、伝えていくものと銘記すべきである。人生における”真実”は口先ではなく、人格を通してしか伝わっていかないからである。
 また、、幼児期や低学年の子どもには、家庭や学校で「読み聞かせ」を習慣化していく努力が必要だと思われる。」

読み聞かせは、かなり効くみたいです。クラス担任の意識で、子どもの読書に対する気持ちがめちゃくちゃ変わってきます。ここ一年くらい観察したり、勉強したりして、そう思います。担任の情熱が大切。


ヘルマン・ヘッセの、メルヒェン『アウグスツス』のお話がありました。

主人公の母は、子どもがうまれた時に、一つだけ願いをかなえてくれると言われる。そこで「だれからも愛される人に」と願う。
同じ人の人生ですが、誰からも愛されるが、冷たく傲慢な人になってしまい、人を愛せない人生と、
人々を愛せるけれど、誰からも冷たくあしらわれ、ののしられる人生を対照的に描いた作品らしい。今調べたら短編小説らしい。さっと読めそうなので、読んでみようと思います。


桜守りのお話

「古来、桜を育てる人は「桜守り」と呼ばれてきた。」

「「守り」は同じまもるでも「保護」とは違う。
「保護」は、今の状態を保たせるという意味あいが強いが、「守り」は、未来へ伸びていく命を信じて、その成長に仕えていこうという心である。
 だから、「守り」をする人は、木をいじりすぎない。基本は、放っておく。しかし、目を離さない。細かく見ながら、大きくまかせていく。
 例えば、心配だからといって、早くから添え木をしたりすると、木はそれに頼って、自力で大きくなろうとしなくなる。
 とくに大事なのは「根」である。
 桜の場合は、枝の広がりとほぼ同じ広さにまで、地下で根をひろげていくそうである。それを知らないで、幹の根本にばかり水をやっていると、どうなるか。
 「桜は、苦労しないでも水を得られるので、根を遠くまで伸ばそうとしなくなるんです」」

桜を育てるのも、人を育てるのも似ているかもしれません。もちろん、添え木もするし、水やりもやるけれど、子どもの可能性を信じて、待つ忍耐が必要。あとバランス。

小学校の水泳とか、水嫌いな子みてると、ほんとにできるようになるのかって思うけど、やる気があって努力を重ねれば、ちゃんと泳げるようになるんだなって、いろいろお話を聞いて思いました。顔もつけられないような子が、顔をつけられるようになり、いずれは泳げるようになる。子どもを信じて待つ。


アンデルセンのお話。

アンデルセンは、「俳優を目指して失敗。歌手を目指して失敗。恋愛はいつもうまくいかず、生涯独身。
 自分がわびしい思いをしてきたからだろうか、アンデルセンの童話には、劣等感に苦しむ人々に寄り添うような優しさがある」

失敗を繰り返すところで、ペスタロッチの人生を思い出しました。「みにくいアヒルの子」とかアンデルセン、また読んでみたいです。

フランス学士院を統括する院長だったランドフスキーは、
「読み、書き、計算」だけではなく、
これからは、「見て、聴き、愛することができる」感受性を教育は養うべきだと主張しているようです。

「空の桶を下げて授業に臨むな」

他にも山田洋二監督が「学校」という映画を作ったときのエピソードとか、いいお話がたくさんありました。