読書 「生命を尊厳ならしめるもの」

全集の一巻に所収。昭和48年の論文。池田大作「生命を尊厳ならしめるもの」を再読しました。人間の精神史、思想史をたどりながら、生命を尊厳ならしめるものはなにかを明らかにしていく論考。人間の尊厳への第一段階の思想運動として、旧約聖書を基盤とした一神教と、仏教そして中国の孔子老子を挙げ、その後、一神教世界がどういう変遷をだどったか通観する。生命の尊厳性を考える視点として、カントを引用して尊厳とはどういうことなのか明確にする。その上で、生命の尊厳という理念を明らかにしていく。

結論をいうと、生命を尊厳ならしめるものは、人間の「心」なんですね。
「『生命尊厳』の哲学を時代精神にし、世界精神へと定着させたい」という願いの背景にある考えが少しわかりました。生命の尊厳、命の尊さと言葉で言うのは簡単ですが、人の主体的な心が関わってくるところに難しさがあると思います。

最後のほうの一部だけ引用。

「目的の王国においては、すべては価格を有つか、あるいは尊厳を有つかである。価格を有つものは、その代わりに他の何ものかを等価物としておくことができる。それに反し、すべての価格を越えて尊いもの、したがっていかなる等価物をも認め得ないものは、尊厳を有つのである」カント『人倫の形而上学の基礎づけ』


宗教的信念の問題
「生命の尊厳ということは、あらゆる生命が尊厳であるということである。そこには尊厳視すべきであるという意味を含んでいる。尊厳視すべきだということは、尊厳性を感じる意識を持たないものには、しょせん無意味であるから、人間をその主体として初めてこの理念が存在しうることも言うまでもない。そして「あらゆる生命」ということは、自己の生命のみであってはならない。自己と関係の深い人々の生命のみであってもならない。更に人間生命のみであってもならない、ということである。
 ところが、現実問題として、同じ人間同士でも好意を持てる人もいれば、どうしても好意を持てない人もいる。単に感情的な好悪の問題でなく、生命の安全を脅かしてく人の場合もある。まして他の動物などにいたっては、その生命の尊厳を認めようといっても、とうてい無理だという場合が少なくない。従って、あらゆる生命に尊厳性を認めるということは、それを信念とする以外にない。そう決めるということである。これは、もはや、経験的な次元から帰納的に出てくることではない。自ら定めた信念であり、そこから演繹的にこれを規範として行動し、生きる姿勢を確立していくのである。
 古来、こうした尊厳観が本来、宗教や哲学を基盤として出てきたのは、このためといってよい。また、そうした人生の規範、人間としての拠りどころを説き示したものが宗教であり、その本質を探究しようとしたものが哲学にほかならない。
 宗教はそれぞれに、尊厳とすべきものを立てた。多くの場合、人間は罪を負ったものであり、悪業に染まった存在とし、尊厳なるものは天上あるいは彼岸にあると説いた。そして、そうしたはるか彼方の尊厳なるものに自己の生命を帰することによって、罪の重荷を取り除き、浄化されて、その栄光にあずかることができると教えたのである。この救いの約束のもとに、人々は現実の人生に規範を定め、一種の安心感と充足感をもって生活を営むことができた。今日、そうした宗教が凋落してしまった原因は、もちろん宗教自身にもあるが、人々の関心が現実生活に集中してしまったことにもよる。秩序や法を失った社会が成り立たないように、人間の精神世界も拠るべき規範を失った時には、混乱し停滞して行き詰ってしまうものである」474項


生命の尊厳観と自己変革
「ちょうど現代人の心は、法と秩序の復活が自由の喪失になることを危惧しつつ、しかも、その再建を願わずにいられないといった状態にあるといえないだろうか。従って、ここで明らかにしなければならないのは、人間の自由が抑圧され奪われるのは、いかなる場合であり、どのような宗教であれば、いわゆる人間としての自由を奪うことなく、しかも確固たる基盤を人間存在に与えてくれるかということである。その場合、尊厳なるものを外界の事物や超越的な存在に求めるのでなく、生命そのものを尊厳とするのでなければならないことは既に述べたとおりである。これまでの宗教において、人間の自由が抑圧され歪められたのは、その説く尊厳なるものの実体が、あくまで現実の人間性を否定したところにあったからである。
 人間の自由への願望を満たしつつ、しかもその精神の拠りどころとなるべき宗教は、生命それ自体を、そのあるがままの全体において尊厳とするものでなくてはならない。もとより、それだけでは一切が自由である代わりに、それを自己の昇華のための規範とすることは不可能である。生命とはあらゆる要素と可能性を秘めた複雑にして多様な存在であるが、どのようになることが望ましいかを描くことはできるはずである。例えて言えば、種々の欲望はあらゆる生命に本然的に備わる特質である。だからといって欲望に無制限に身を委ねれば、周りの人々を傷つけ、我が身を滅ぼしてしまう。そこに欲望を賢明にリードできる理性なり道徳律といったものが、その人の生命に内在化しなければならない。
 これは誠に複雑にして難解な課題であるが、そこに生命ないし人格の理想像を描き、この理想を自己の生命に実現することを目指して、自己変革に挑むのである。それ自身における”尊厳性”を、単なる一般的原理としてのそれから、具体的現実としてのそれへ転換するものとなろう。それと同時に、他に対してはどこまでもその生命を尊厳と認め、その幸福を願って行動していくべきである。なぜなら、その人の信念から行動として体現化されたものは、同時にその信念をより深め、生命自体を変革していくからである。
 カントが「君は、君の人格の中にある人間性と、また他のすべての人の人格の中にある人間性とを、常に同時に目的として取り扱い、けっして単に手段として取扱わないように行為せよ」と言い、「人間にとって、目的であるとともに、同時に義務であるところのもの」は「自己自身の完全性と−−他人の幸福である」というのも、全くこの意味であると思う。しかしながら「自己自身の完全性」とは一体どういう状態をいうのか。これが明らかにされなければ、この議論は単なる概念の提示に終わってしまうであろう。」(475項から477項)


十界論に見る生命観
「文学を意識の流れとしてとらえたマルセル・プルーストの言葉に、次のような一節があった。
「私は、ただ一人の男ではない。私の心の中を、ぴったりと列を組んだ兵隊の行進が、何時間もよぎっていくのである。ある瞬間に私の心をよぎる兵隊の性格が、その時の私の心なのである。ある時には、ひどく興奮した男たちが、または無関心な男たちは、それぞれ別な女に嫉妬の炎をもやしているのである」
 たしかに、私達は、自分の心を冷静に振り返ってみる時、瞬間瞬間、様々な心が入れかわり立ちかわりして、とどまることがないのに気づく。スポーツや娯楽に興じている時の自分と、不愉快なことがあって怒っている時の自分、不幸な人のために役立ってあげることができて満足している自分と、のどが渇いたとか空腹だとかで、飲み物や食物を欲している時の自分等々というように様々異なる。そのような変化の中にも一貫した自分があるに違いないが、瞬間瞬間の変化は自分でも驚くばかりである。
 私は本論で人間の尊厳への第一段階の思想運動として、旧約聖書を基盤とした一神教と、仏教そして中国の孔子老子を挙げ、その後、一神教世界がどういう変遷をたどったか通観した。そして仏教と孔子老子の思想は”神”ではなく”法”を根幹にしたものであることのみ述べておいたが、この中でも仏教は生命そのものを解明し、そこから自己完成の原理を導き出そうとしたものであるといえる。この仏教の説く哲理はいかにも深遠で複雑なのであるが、こうした生命の多様性を分析し整理した法理に十界論がある。十界の名称は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏で、この一つ一つの名前は、日本人には馴染みの言わば抹香臭さを感じさせるものだが、生命の多様な実体を、見事に分析してみせた合理的な思索の結晶であると私には思える。
 簡単に、この内容、特質を紹介すると、地獄とは苦悶する生命であり、餓鬼とは貧欲な衝動の生命である。畜生とは目先のことにとらわれる愚かさ、修羅は闘争の心、いわゆる平常な静かな人間らしい心が人間界、喜び楽しむ生命が天界である。以上を六道と言い、日常的な人間生活は、この六道を転々としているというのが「六道輪廻」である。このように瞬間瞬間、生命が変転するのは外界の縁によるが、受動的にあるがままに生きている限り、この六道の範疇は出られないというのが「六道輪廻」ということである。声聞以上の生命は、自ら自己変革の意志をもって、能動的、主体的に縁をつくり実践していく時に、初めて覚醒させることができる。声聞とは先覚者の教えを求め、それを習って自己を変革しようとする心であり、縁覚とはいわゆる飛華落葉の自然現象、宇宙の姿に想いを凝らし、自ら悟りを得ようとする心である。広い意味で書を読み学問をすることに喜びを見いだしていく生命も声聞と言えるし、芸術的創造活動や自然界や社会の現実の中から真理を究めることに無上の喜びを覚えるのは縁覚と言えるであろう。
 仏界とは宇宙と生命の本質、究極的真理を体得し、自己の不滅と宇宙との一体性を悟り究めた絶対的な心の状態である。それは一切を包含し、一切を生かしていく無限の智慧をともなる。仏教が説く究極の理想、自己の完全性とは、この仏界の生命を確立することである。ここに理想において、自己変革に挑む道程の生命を仏教は菩薩と呼ぶのである。広い意味では、すべての生命に尊厳性を認め、その幸福のために尽くす無辺の慈悲が菩薩の生命である。母が我が子の幸せを願う限られた対象に向ける慈愛も、「菩薩の一分」と説かれる場合もある。
 ともあれ仏教は、仏界の生命を顕現することを理想と説くが、元来この十界は、すべての人、すべての生命に備わっているものであって、例えば地獄の生命が苦悶の心であるからといって、これをなくすことはできないとする。生命体として現実に存在する限り苦しみ悩むことは避けられない。欲望もまた生命体の機能として必然的に備わっているものである。逆説的な言い方になるが、こうした苦悩があればこそ、楽しみが楽しみとして感じられるのであり、欲望があればこそ満足感が味わえるのである。
 要は地獄の生命に覆われ埋没してしまったり、餓鬼界の貧欲な衝動に支配されるのではなく、仏界の生命の確立を目指し、菩薩界の生命活動を機軸として、こうした十界の生命を賢明に主体的にリードしていくことである。ここにカントの言う「自己自身の完全性と−−他人の幸福」を同時に具現する実践的哲学の原理があると私は考えたい。」(477項から479項)


「殺」の心を殺す
「人間は、生きるためには他の生物の生命を犠牲とせざるを得ない。厳密な意味で生命の尊厳とは、生きとし生けるあらゆる生命体について、その尊厳性を認めるということである。ところが人間は、一方で”生命は尊厳なものである”と言いながら、他方ではその尊厳なある生命を大量に屠ることによって、自己の生命を維持している。いや人間ばかりではない。ほとんどの動物は、その対象が動物であれ、植物であれ、生命体を自分の生命維持のための資源としているのである。
 自己の生命の尊厳性と一般的な生命の尊厳性とは、ここで重大なジレンマに陥ることになる。これは人間を中心にした場合、人間の尊厳という問題と生命一般の尊厳という問題との矛盾になる。これに関連して、釈尊の言動をとどめた書の一つに興味深い問答がある。それは−−ある人が、「生命は尊厳だというけれども、人間はだれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」と問うた。これに対して、釈尊は「それは殺す心を殺せばよいのだ」と答えたというのである。
 質問のポイントは、殺してよい生き物と殺してはならない生き物との区別を示せということである。釈尊は、直接にはこの質問に答えていない。だがそれは、はぐらかしたのではなく、より本質的に生命の尊厳というものを明らかにしているのだと私は考える。
 生命の尊厳とは、あらゆる生命を尊厳と認める自身の心の中にある。客観的にみるだけなら、いかなる生命も無常のはかない存在であり、苦悩に覆われ悪業に支配された存在にすぎないであろう。それが人の心に尊厳と映るのは、その人自身がこれを尊厳とみるからである。そして、その一切の生命を尊厳とみる心が、自己の生命を尊厳ならしめるのである。この客観性と主観とが一体となったところに、真実の尊厳性が現実化するのだと言ってもよい。」(480項から481項)




「君たちはどう生きるのか」
これも関連のある話だと思う。
終わらない不完全性の自覚は、完全性への道程だと思います。「仏界は軌道である」という考えを想起します。
http://d.hatena.ne.jp/Teruhisa/20080725/1216997867