僕にとって凄く大事だと思ったので、それにシェアーもしたいと思い、
敬愛する人生の先輩の記事をメモ。
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【仏法は勝負台をひっくり返す】
(ちょっと手を入れました)
日蓮の「仏法は勝負」ということばが、
しばしば、日蓮本来の意味と正反対に使われています。
不景気な中、就職戦線を勝ち抜く、
不景気で、商店街の店が次々と廃業していくなか、
うちの店だけが繁盛してます。
仏法は勝負、がんばりまっせ!
うーん、それはそれでいいかもしれないのですが、
過酷なサバイバルゲーム自体を終らせませんか?
そのような、弱いものが他を蹴落としながら、
上に上っていくという、
「成功物語」のはかなさを真剣に問い直すのが、
宗教的価値というものではないか、
と思うわけです。
日蓮は、そのように、世間と勝負すること論功行賞を挙げよう挙げようとするばかりを考える門下の四条金吾に対して、
そのようなものは、世間的結果(領地や身分)を、お上からいただいてありがたいという、「賞罰」という価値観だ、として叱り、
そのような世間的な勝負ではなく、
世間的な価値を見下す、ことが本当の勝利と言ってるわけです。
勝ち負けという考えを破壊すること。
それが、本当の勝利です。
サバイバルゲームを勝ち抜くのではありません。
サバイバルゲームの台をひっくり返す、
台無しにすること。
人々に、過酷なサバイバルゲームを与える「世間」を打ち破ることが、
日蓮が目指したことです。
具体的に、文脈を見たらすぐわかります。
「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」
この有名な文章の後を見てください。
この後、何行何行も、日蓮が果てしなく記すのは、
日本の天皇たち、エラい人たちの、血で血を洗う内乱の歴史です。
これが、「王法」「賞罰」の世界です。
そして、最後に、日蓮はぽつりと語ります。
「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」
もう、サバイバルゲームはやめませんか。
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僕の仕事は
子どもたちに一つは溜めを作るのを助けること。
その目的を絶対に忘れないようにしよう。
もっと一人一人によりそって、できることを増やしていこう。ケアの時代か。
日蓮はフーコーやドュルーズに通底しあうものだったのか。
『動きすぎてはいけない』やっぱり買って読むか。
そして原著も読むこと。一次資料を読まないと真実は決してつかめない。その苦労を避けてはならないですね。