読書記録『チームの力』  ⑵ 

あまりにもいいので、今日はまた最後まで再読してしまった。

線を引いたところを中心に引用して、昨日の続きの振り返り。


西條さんは「ふんばろう東日本支援プロジェクト」といって、日本最大級の総合支援プロジェクトを運営した経験がある人。ここで書かれている原理をどう組織運営に使うのかは、ぜひこの分野に興味がある方は読まれるといいと思います。おすすめです。このプロジェクト、理念と原理の共有からゆるやかに協同的につながりあっている組織(チーム)で、こんなことあるのかと驚嘆。他の分野のチームですが、このプロジェクトみたいに学級経営ができたらいいなと思ったくらいです。


僕の関心のあるところで、エッセンスだけ引用して振り返ります。


ビジョンとは何か。

 結論からいえば、「ビジョン」とは、組織が目指すべき将来像をスケッチした「下書き」と考えればわかりやすい。

ビジョンには、(1)理念に近く組織が目指すべき大きな方向性として機能する”ビックビジョン”と、(2)より具体的な”個別ビジョン”がある。

(p57)


自分の学級でいうと、クラス目標とビーイングがこれにあたる。




価値とは何か?


チーム作りに役に立つ原理が”価値の原理”である。価値の原理とは、”すべての価値は目的や関心、欲望といったものに応じて(相関して)立ち現れる”というものだ。

価値は相対的なものだということ。思い出すはカントや牧口常三郎の二世界論(二元論)。

人間が勉強して対象を追求して行くならば、よほどのことがない限り、最後の『真理』に到達する。ところが、『価値』の方は、たとえば、道徳的な正義については、教えてもらわないと分からない。経済的な利益についても、探求すればいつかは誰でも金持ちになれるとういものではない。
 芸術についても、やはり我々はバッハやハイドンモーツァルトやベートーベンという大先輩から、これが美なんだよ、と教えられたから、美しい音楽というものがどういものかを分かるのです。
『人間になりますと、人間というのは教えてもらうことによって、人間のあり方を教えてもろうて生きがいを感じる』というのは、こういうことなのでしょう。
 私は、自宅に訪ねてきた女子学生が『先生、トレイを貸してください』と言うと、怒ります。『駅でちゃんと済ませてきなさい。デパートのトイレが一番きれいなんだから』と。こういうことは、人に教えてもらわないと分からないんです。教育は、そういうことが大事なんですね。単に勉強して、探求して、考えに考えた結果、他人の家のトイレは借りるものでない、という結論を出すということはあり得ません。

牧口常三郎研究の第三段階のために」『創価教育』3号155項
これは湯川秀樹梅棹忠夫の対談『人間にとって科学とはなにか』という本からの話。


湯川秀樹は言っています。『今から二千数百年前に、大宗教家や偉い思想家がぼつぼつ現れるでしょう。そういう時期がある』釈迦や孔子ソクラテス、それから四百年遅れてキリストが出ますね。こういう時代をヤスパースが『枢軸時代』(Achsenzeit)と言っています。この四人の偉大な思想家、宗教家が誕生したことは、人類にとって本当に幸運だったのです。
 そしてこう述べています。『それ以前もあったかもわからんけれども、それ(=偉大な思想家)がかたまって出てくるときでさえも、実際には非常に少数です。少数の人が広い意味での価値体系というものの重要性を教える。それによってたくさんの人が教えられ、価値体系がどんどん広がる。これはたくさんの人が、それぞれ別個に、独立して、自分の価値体系をつくるのと全然違う現象ですね』。
 たぶん、われわれも『価値』について考えるときに、この湯川の指摘を頭に置いておくとよいでしょう。宗教を例にとれば、宗教学のように、『真理』の一部分としての宗教というのは当然あります。しかし、宗教そのものの『価値』を自分のものにするには、いくら宗教学を勉強してもダメなんです。宗教学を勉強して、やれ信仰がどうしたとかカリスマがどうしたとか勉強しても分からない。
 ではどうするとよいか。宗教の価値を自分で体得し、自分の血肉とするには、やはりそれを教えてくれる教師、あるいは偉大な宗教家が必要である。このことを科学者である湯川秀樹が述べているのです。この観点から、私たちは、改めて『価値』を自分のテーマとして引き受け、考え直す必要があると思います。

牧口常三郎研究の第三段階のために」『創価教育』3号155項


宗教そのものの価値という表し方をしているけれど、他にもバッハの音楽など、これらは西條さんが価値の原理として表した価値とまた違う。原理的な価値、牧口常三郎の著作から考えると真理的価値と言えるかもしれない。価値には二種類あるかもしれない。西條さんが言われるような相関的に立ち現れるような価値。また相関的な次元とは別の真理的な価値。それは西條さんの本で示されている原理と個別理論の関係や違いのように。


もし西條さんが示す価値しかないならば、
例えばその学年のすべての子に合う国語の教科書の教材とか存在しないことになる。普遍的な良書も存在しないことになる。それはある一面正しいと思うけれど、半分は間違っていると思う。いや、間違っているというよりは、価値のもう一つの側面をたぶん見落としているように思う。




「個別理論」と”原理”の決定的な違い

 経験則や経験(エピデンス)の積み上げにより構築された「個別理論」は例外があるため、一般化することができない。しかし、批判的吟味を通して、”例外なくそのおうに言える”と確かめられた”原理”は、経験に基づく個別理論とは異なり、いつでもどこでも普遍的に洞察できる”視点”として活用することが可能になる。
 さらに、原理的に考える限り、そのように考えるほかないという強靭な理路に支えられているため、立場や流派や専門分野の壁すら超えて了解される深度を備えている。これが行動科学ベースの通常の組織行動にはない、構造構成主義に基づく組織行動論(本質行動学)の最大の意義と言ってよい。

(p63)


これは科学と哲学の違いだと思う。原理的な思考って大事だ。カントが道徳というテーマで試みた考察について思い出す。


読書 道徳形而上学の基礎づけ (光文社古典新訳文庫) - 日記
道徳形而上学の基礎づけ-光文社古典新訳文庫-イマヌエル-カント - 日記

ここでいう道徳的な価値、善の価値は、真理的、原理的な価値で、西條さんの議論に出てくる価値とは違うかもしれない。違うと思う。価値が人の関心から相関的に立ち現れて来るというよりは、哲学的な経験によらない原理を洞察するという、構造構成主義の考え方で原理を洞察するのと同じ方法で、カントは道徳の原理を考察している。そこには普遍的真理的な価値の発見がある。



構造構成主義とは何か: 次世代人間科学の原理

構造構成主義とは何か: 次世代人間科学の原理

これ読んだなあ。どこにあるのか。実家かなあ。確認したい。
やはり新しいことはないということが主な理由で辛口評価の方がいるけれど、
僕は哲学史の学者ではなくて、あくまで、普遍的な思考法を生活に活かすために、哲学を学んでいるので、こうやって現実にチーム作り、組織作りに、対立解消に、研究に哲学的な思考を使っている著者もその作品も本当に素晴らしいと思う。


まだまだ心に残っているところがたくさんあるのだけど、無理しないで、また今度振り返ろう。この後折り目があるページが30くらいある。


この後方法の原理が出てくる。方法の原理から考えると信念対立を超えることができる。だめだ。眠い…。



振り返りの振り返り
現象と物自体というカントの認識論があるように、価値には二つの世界があるといえるかもしれない。二元論。二世界論。西條さんの価値の原理は一次元の原理だと思う。ではもう一つの価値の原理をどう言語化できるのだろうか。価値とは何か?こういった問題にチャレンジしてきた哲学者たち。牧口常三郎やカントもその一人。西條さんもそう。


「少数の人が広い意味での価値体系というものの重要性を教える。それによってたくさんの人が教えられ、価値体系がどんどん広がる。これはたくさんの人が、それぞれ別個に、独立して、自分の価値体系をつくるのと全然違う現象ですね』。」

孫引きだけど、この湯川さんの言葉は重要。なるほど、「広い意味での価値体系」か。別個の自分の価値体系。この自分の価値体系の原理は西條さんが示す原理。「広い意味での価値体系」それは教えてもらはないとわからないという。そのようなことは本当にあるのか。チームの話から、価値とは何かという話へと脱線。



個別理論と原理の違い。個別の価値と広い意味での価値(真理としての価値)との違いは何か。



「もし西條さんが示す価値しかないならば、
例えばその学年のすべての子に合う国語の教科書の教材とか存在しないことになる。普遍的な良書も存在しないことになる。それはある一面正しいと思うけれど、半分は間違っていると思う。いや、間違っているというよりは、価値のもう一つの側面をたぶん見落としているように思う。」

ここから個別化という話も出てくる。価値の一つの原理から。その原理は大事だ。そこを無視したら必ず失敗するだろう。ただもう一つの価値の世界が次元があるとしたら、それも無視できない。それを無視しても成功しないだろう。だからトップダウン的なことにも意味があると言えるのは、もう一方の価値の原理が存在するとしたら。それは普遍的な価値を信じているからそういうことをするわけだ。そのような価値がなければ、価値の原理から、すべて、またはできるだけその人の関心のそってやればいいことになるのかもしれない。しかし両輪あって、そのバランス感覚が重要だと言えるのではないだろうか。


例えば、本を選ばせること、良書を与えることのバランス。
ってまた読書教育の話題へ向かう自分。
そうか…、良書も確かに教えてもらわないとわからないのかもしれない。
ぼくが大学で有り難かったことの一つは、
大学の先生に社会科学など、その分野で読むべき良書を教えてもらったこと。


三国志』を読みたいっていう6年生のために、偕成社の『三国志』を貸したのだけど、「大丈夫、読める?(難しくないかな)」と聴いたら昨日読めてるって「ありがとう」って言われて嬉しかった。はっきりいって、小学生が読める本は限られているけれど、偕成社の『三国志』は小学生が読める本の中で、最も質の高い作品の一つだと思います。多くの小学生が読める『三国志』の中でも、最も詳しく書いてある。

三国志〈1〉英傑雄飛の巻

三国志〈1〉英傑雄飛の巻


価値の認識っていうのがある。子どもたちは本についてあまり知らない。
真理の認識という次元から価値を考えると、違った価値観が見えてくるかもしれない。