エリアス・カネッティと似非仏教

私が知っている中で最も卑しい感情は、弾圧される人々への嫌悪である。そういう感情のせいでわれわれは、弾圧される人々の特徴を理由にして、弾圧を正当化しうるように思うのだ。きわめて高貴で公正である哲学者さえ、こういう感情をまぬがれていない。(エリアス・カネッティ『蝿の苦しみ 断想』青木隆嘉訳、法政大学出版局


似非仏教思想のことを思い出す。



今日の敬愛するTさんの言葉

福運って、いうけど、
結局、運なんだよね。
偶然。
たまたま。
いくら、善行を実践しても、
つらいことにも、あう。
それが、ゴータマ・ブッダの考え方ではなかったのかな。
だからと言って、他の、アクリヤー・ヴァーディンの人たちみたいに、虚無主義にはいたらない。
(ほんとに、その人たちが虚無主義であったかどうかは分からないけど)
ゴータマ・ブッダの考え方は、
「今、畑を耕している人が、農民である」
という、あの、言葉につきる。
今、きちんとした行動をしている人は、
過去世の宿業を消すとか、
未来に対する福運を積むとかではなく、
今、きちんと行動している人は、
今、きちんと行動している人なんだよね。
ていねいな生き方をしていると、
その時、人生はていねいなものである。
「福運積むため」「宿命転換のため」とかいって、粗っぽい生きかたしてたら、あかんよね。
自分の人生に、丹精込めねば。

「福運積む」とか、「宿命転換」ということばは、
時として(いや、ほとんども場合かな)、差別につながります。
つまり、何か、大変な状態や困難な状態にある人を、
「福運がない人」「宿命がある人」と、
金持ちで、健康な人と比べて、
劣っていると思うという、
間違った価値判断をしているという、
大前提があるわけです。
例の若き日の、釈尊が思い当たったあれですよ。
人は、自分が老い、病気になり、死んでいくのに、老いた人、病者、死者を見ては、嫌悪する。
そのように、差別する人には、若さの傲慢、健康の傲慢、生きていることの傲慢がある!
あの気づきですよ。
仏教というのは、まさに、そのような差別に対する抗議だったわけです。