戦時下の「平和」

戦時下の「平和」
 伊藤貴雄
 トルストイ主義者として有名な武者小路実篤という文学者がいる。彼は戦争に協力したかどで、戦後は公職追放になっている。私はかつて、彼が戦争中に書いた文章を読んでいて、あることに気づいた。どの文章にも、「平和」「東洋平和」「世界平和」といった言葉がひんぱんに出てくるのである。簡単にいうと、日中戦争は「東洋平和」のため、日米戦争は「世界平和」のための戦争である、との主張である。1938年に書かれた『牟礼随筆』、1939年に書かれた『蝸牛独語』、そして1942年に出された『大東亜戦争私感』にはそういうことが書いてある。
 一方、非暴力主義という意味でトルストイを信奉した人もいた。熊本県人吉の北御門二郎である。戦後、トルストイの翻訳で有名な人だが、日中戦争中の1937年、銃殺刑覚悟で兵役を拒否したことで知られている。彼の自伝『ある徴兵拒否者の歩み』には、村八分扱いを受けながらも一切の軍事演習を拒否しつづけたことが、当時の日記を引用しながらつづられている。ところが、その日記には不思議なくらい「平和」という言葉が出てこない。もちろん、すべての日記を収録しているわけではないが、少なくとも、武者小路との違いは歴然としている。
 1938年ごろから、文学界の大御所である武者小路がさかんに「平和」という語を連呼し、他方、妥協なく非暴力主義を奉じる無名の一青年である北御門が、あまり「平和」という語をつかっていないという事実――。考えた末に、私はこう解釈した。日中戦争が始まって以降、「平和」という言葉は、「平和のための戦争」という大義名分として使われていたのではないか、と。
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 そうしたまなざしで見ると、時代の構図がくっきりと浮かび上がってくる。日中戦争勃発の翌年、1938年9月に警保局が「新聞指導要領」を発表した。そこでは全メディアに対し<戦争プロパガンダ>を命令している。「東洋永遠ノ平和ヲ確立スルコトハ今次聖戦ノ大目的ナリ」、この目的を妨げる言動があれば断乎排撃せよ、と(『現代史資料41』みすず書房、165ページ)。
 太平洋戦争の前に出た国民教化パンフレット『臣民の道』にも、日中戦争の目的は「世界平和の確立に寄与せんとするにある」(『文部省編纂 臣民の道』17-18ページ)と書いてある。また、太平洋戦争中の学校教科書には、さらに露骨な戦争プロパガンダが見られる。
 「【世界の平和】をはつきりとつくりあげるためには、いろいろの国が、たがひに道義を重んじ、公明正大なまじはりを結ばなければなりません。これを守らずに、他国の名誉を傷つけ、自国のためばかりをはかるのは、大きな罪悪であります。したがつて、このやうな国があるとすれば、それは【世界の平和】をみだすものであつて、私たち皇国臣民は、大御心を安んじたてまつるため、断乎としてこれをしりぞけなければなりません。大東亜戦争は、そのあらはれであります。大日本の真意を解しようとしないものをこらしめて、東亜の安定を求め、【世界の平和】をはかろうとするものであります」(『初等修身科 三』99-100ページ。【 】は筆者)
 これらは代表的な例にすぎない。十五年戦争期、とくに日中戦争以降、「平和」という言葉はインフレーションを起こしていた。体制側の知識人やメディアが、こぞって「平和」を叫びながら戦争に狂奔していったというのは、なんとも恐ろしい歴史の皮肉である。
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 そもそも、国家権力や政治家が口にする「平和」というものが<戦争の大義名分>にすぎないことは、トルストイが力説してやまなかったことである。日露戦争時に彼が発表した有名な非戦論から引用しておく。
 「世界の諸国に【平和】を呼びかけていた当のロシア皇帝が、世界に向かって、心からなる【平和】への努力にもかかわらず(実は他国の領土を占領し、軍隊の力でそれを守ろうという努力なのであるが)日本人からの攻撃を受けたために、日本人が我々に対して為した同じことを彼らに対してすることを、つまり彼らを殺すことを命ずる、というのである。[…]それとちょうど同じことを、日本の皇帝もロシア人に対して宣言した。
 ムラヴィヨーフとかマルテンスとかいった法律学者たちは、【世界平和】を訴えることと、他国の地を占領するために戦争を起こすこととは、なんら矛盾しないことをしきりに証明しようとする。
 また外交官たちは、上品なフランス語の回章を印刷してまわし、その中で詳細かつ丹念に(誰も信じはしないことはわかっているのだが)【平和関係】を築こうとあらゆる努力を試みたあげく(実際は他の諸国を欺こうといろいろ試みたあげくなのであるが)、ロシア政府はついに問題の正しい解決のための唯一の手段、すなわち人殺しという手段に訴えざるを得なかったということを証明しようとしているのである」(トルストイ『胸に手を当てて考えよう』北御門二郎訳、地の塩書房、26-27ページ、【 】は筆者)。
 また、トルストイの深い影響下にあるとされるガンディーも、政治家が<平和>という言葉を隠れ蓑にして<暴力>の爪を研いでいることを、鋭く指摘している。1947年7月に機関紙「ハリジャン」に寄せた一文を引用する。
 「ボンベイで一九三四年に会議派[=国民会議派]大会が開かれたとき、わたしは『平和的』という言葉を『非暴力的』という言葉に置き代えさせようと懸命に努力しましたが、結局は成功しませんでした。このことからしても『平和的』という言葉には、たぶん『非暴力的』という言葉ほど厳格な意味が与えられていないことは明らかです。
 わたしには、そこになんらの相違も見られません。けれども、わたしの考えは見当違いのようです。もし本質的な相違があるとすれば、それを明確にするのは学者の仕事です。
 みなさんやわたしが知らなければならないのは、会議派の実践が、一般に認められている言葉の意味では、いまや非暴力的でないという事実です。会議派が非暴力の政策を誓ったのであれば、非暴力を支えとする軍隊などあろうはずはありません。それなのに会議派は、軍隊を見せびらかしているのです。
 国民がわたしの言葉に耳をかしてくれなければ、やがて軍隊は文官を完全に抑えて、インドに軍国主義支配を確立するかもしれません。わたしは、国民大衆がわたしの言葉に耳を傾けてくれるという希望をすっかり棄てなければならないのでしょうか? わたしの息のあるうちは、それを棄てることはできません」(ガンディー『わたしの非暴力2』森本達雄訳、みすず書房、267ページ、『 』は原文)。
 ーートルストイといい、ガンディーといい、真の<平和>を希求するがゆえに虚偽の「平和」を斥けざるをえなかった。彼らの非暴力主義を人がどう受け取るにせよ、この言語批評の鋭利さは今後ともわれわれの指標とすべきものであろう。

牧口常三郎は国家政策の何に抵抗したか」『創価教育研究』第3号、2004年から


今から10年前くらいにこの文章をはじめて読んで、それから何回か読み直して、また今日も読みました。今の世界が、前よりもさらに、ここで書かれている状況と重なるように思う。