自分が作った物事に支配される人間たち

昨日は寿司屋で熱燗2合、家に帰ってからビール500ml。それで考えこんでしまった。
そのまま思ったことを文字にしておこう。


人権って、行動するものだと思う。つまり実践的な概念。
人権教育だなんだって、言っているのに、
歴史を振り返れば、
例えばハンセン病問題のこともそうだし、ここ5、60年間の原発推進もそうだし、人権教育を叫びながら、人権侵害をしていることに自覚的ではないのかな…。



ライネケのセリフを思い出す。権力っていうのは、自分では手をけがさないで、弱者、被差別者をつくりだして、その人たちに悪いことをさせる。


核廃棄物の問題を解決しないで、原発推進するってことは、これから生まれてくる人たちを犠牲にするのことだと思うけれど、当然そのことに対して反対している人たちは疑問を声に出してきたはずです。それに対しての応答はないのか。未解決ということは応答がないの等しいと考えられる。




原発は麻薬と似ていると思う。
原発のためにお金を集めるシステム。知らなかったけれどみなし稼働率の話。依存。もともとそれらがない当たり前の世界を忘れてしまいそうになる。一度作るとなくすのは大変なことだ。作るまではいいけれど、今度は人間が作った制度や原発に、人が逆に支配されるようなことになっているように思う。


いらないものはいらない。それに対案はいらない。いらないものを作って、今度はその悪法や、作り出した物に支配されるようになってしまうからだ。これは歴史の教訓だと思います。



安斎さんが言われていたけれど、国民の一人一人が醒めないとどうにもならないのかもしれない。キルゲゴールの言葉にある通り。僕は素朴に大事な政治的判断に対して、政治家にはきちんと説明、応答してほしいと思う。政治は、利害を調節することだから損する人も出てくると思う。ただそれに対して、きちんと説明してほしい。それも彼らの仕事ではないのだろうか。




自分ひとりでもお酒がやめられないくらいだから(お酒がない時が懐かしい。全然を本を読まなかった頃には戻りたくないけれど、スポーツして(体動かして)、あまりカフェインとかアルコールとか頼りなかった時にはたまに戻りたいとも思うことがあります)、
集団的な強烈な依存をやめることはもっと難しいのだと思う。
一度作ったものをなくすのは難しい。