大学の頃

デモはしなかったけれど、
大学生の時、
学生平和推進委員会というところで、
イラク戦争在日韓国人への差別問題などについて考えていた。
そこの団体は、
すこしお手伝いしただけだけどシンポジウムを開いたり、
あとは論考をまとめたものを出版したりしていて、
僕はチャップリンのエッセイを書かせてもらったりした。


とてつもなく勉強ができて、しかも行動的な人が集まっていて、
刺激的でした。僕は2浪だったから、一つ年下でも先輩の人がいて、


年下だけど優しくてすごかった笑 懐かしい。


この時に小学校や中学生の時のサッカーと同じで、
とても勉強では敵わない人がいるのだいうことをさらに実感した。
大学の魅力的な先生は、小中学生のときの出会ったロベルト・バッジオのように
次元が違った。周りの同年代の学生も熱心に学ぶ人がたくさんいて、
自分って流されやすいので、大学院に行きたいと思っていたのですが、
今振り返っても行かなくてよかった。あのままいっても、上手くいかなかったと思う。


今なら教職関係のことでチャンスがあればと少し思うけれど。



あのとき、在日韓国人の方の大学受験資格がないという差別問題に対して、東京外語大学というところでシンポジウムを確か学生平和推進委員会の人たちが中心に開いた。僕はすこしお手伝いをしたのか、参加しただけだったのかあまり覚えていない。そのシンポジウムでは、極めて厳しい差別的な状況で司法試験に受かった在日韓国人の方と、あと東京大学高橋哲哉先生が講演してくれた。高橋哲哉先生がそのシンポジウムの後の飲み会にも来てくれたことは忘れられない。こういうエピソードって大きくて、高橋哲哉先生の本も柔らかい優しい人柄もより好きになりました。



そのシンポジウムの後に、当時の東京外語大学は大学受験資格を認めるように変わった。このことがすごく心に残っていて。現実って変えることができるし、変わるのだと、そのシンポジウムだけが原因ではないと思うけれど、今でもそのときのことを思います。





大学四年生の時くらいに円形脱毛症にはなったのだけど、母校はあまりにすてきな思い出がある場所だ。円形脱毛症になるくらいだから、ちょっと無理しすぎて、いいことばかりではなかったのだけど、時間があれば、言葉にして振り返っておきたい。


あの時は、活動と勉強しかしてない感じだった。


その分、僕は大学に入るまでに一生分くらい遊んでしまったとも思う。だから今もそんなに遊びに出かけたいとは思わなくて、学ぶことや仕事がある意味遊びの代わりなのかもしれない。