コンビニとかで余った食料を、貧困の状態の子どもに!とかいう話。
冗談じゃないで。
それを自分が食べて、お金を貯めて、そのお金を貧困状態の子どもにあげたらええやん。
なんで、そんな、切ない思いをせなあかんの。
それって、野田正彰さんが、『災害救援』で述べている、
災害被災者を、その「役割り」に貶めるものと違うの?
人に接する時、「効率」と言うことは、もっとも避けるべきことだと思います。
予測不可能性が、畏敬ということの本質ですから。
それで、多くの人たちが切り捨てられているという歴史があるわけです。
たとえば、ごく一例ですが、
ハンセン病は、指の神経系が侵されるので、どうしても、銃の引き金が引くのに不自由である。
だから、戦争に行けない。
それで、非効率の「廃疾者」というレッテルを貼られて、タダ飯を食う、「座敷ブタ」といわれ、
3万人が、治ってもでてこれない、終生強制隔離となった。また、その家族は、そういう非効率な、「廃疾者」を産み出した家族として、村を追われた。
そういう差別が、今も続いています。
また、たとえば、これは最近まであったことですが、
進行性筋ジストロフィーの、女性患者は、
「どうせ、子どもも産めないのだから、
看護の手間のかかる、生理があったら非効率だ」
として、卵巣や子宮を放射線で焼かれてきたわけですよね。つまり、そういう悲劇の積み重ねから、
「効率」という言葉は、人に対しては、絶対つかってはならないことばであるという、
経験的知識が蓄積されていたんですが、今また、歴史を知らない人たちが、社会を支配するようになって、悲劇が繰り返えされようとしています。
今でも、障がい者、その家族、
治ってるのに、未だに、カミングアウトできないハンセン病回復者、そのご家族、
精神障がい者、そのご家族、
依存症のかた、そのご家族。などなど、「効率」という言葉を聴くと、恐怖に落ちる方々ばかりです。
ご存知のように、ナチスドイツのスローガンが、Leistungsfähigkeit(効率)ですからね。
まず、ナチスは、ドイツを、「一流の人間ばかりの国」にしようということで、
障がい者、放浪するロマ人、労働せずに、金利をむさぼる(とヒトラーが考えた)ユダヤ人をつづつぎとガス室に送り込んだわけです。
Arbeit macht frei.
労働は自由をもたらす。
もう一つは、
Jedem das Seine人は、それぞれ、自分が所有すべきものが与えられる。
二つとも、立派なスローガンみたいだけど、
大事なこと。
「効率」という言葉を人へ決して向けてはいけない。
そりゃあそうだ。人は手段としてだけ扱ってはいけない、人は目的。
歴史やカントの議論を持ち出すまでもなく、普通に考えてもわかることだと思う。
でも歴史から考えるとよく分かります。
牧口の「経済を原理せよ」というのは、技術・方法・理論に対して。
この峻別が極めて大事だと思う。
Tさんの投稿やコメントを読んで、より明確になってよかった。