経済を原理とせよ

同じ効果なら、少ない時間で楽しく(快く)達成できる理論や方法が基本的にいいと思います(試行錯誤も避けられないし、熟達には、時間がかかるという認識の上で)。


僕の考えが絶対だとは思わないけれど、
教育学の理論や教育方法に対して、今の実践研究って、経済(効率)の視点を軽視しているように感じます(仕事術では聞くのに)。経済の観点の話ってほとんど聞かない。


効率(経済、生産性)って人に向けたらいけない言葉だと僕も思います。
でも方法や理論にはいつもではないかもしれないけれど向けるべきではないでしょうか。


ペスタロッチやヘルバルトの教育学理論の多くは経済を原理とするもので。
それは強烈な影響を世界中の教育に与えています。


意識しようがしまいが僕たちはその理論の大きな影響の中にいます。
そのおかげで、昔よりも少ない時間で教育目標を達成できるようになっているはずです。
仮にペスタロッチたちの教育学理論の反対にやれば、教育目標からどんどん遠ざかるばかりでしょう。
昔よりも多くの時間を使わないと同じ教育の目標レベルまで達することができない。


教育方法や理論を評価する大事な観点を欠いている、または軽視していることが多いように見えるのが、残念なことだなあと思います。経済の視点を欠くのはよくないと僕は思う。


カントの認識論もそう。ペスタロッチの直観教育はカントの認識論から導き出されたものだそうです(牧口常三郎の「経験から出発せよ」もカントの認識論から出てきたもの。「経済を原理とせよ」はマッハの思考経済から)。
中世のヨーロッパの教育は論理学が主で直観(直接観察すること)に欠くことが多かった。その反動で登場したのが実証主義です。直観を欠く学習というのは砂上の楼閣みたいなものです。労多く益少なしです。ショーペンハウワーは直観をともなう学習を自然的な教育と呼び、そうではない教育を「順序転倒」である、ゆがんだ頭脳を作るものであるととても非難しています。


例えば、直観教育の流れ、理論から考えても体験学習はとても有効ですし、僕は正しいと思います。ここは、子どもも大人もそんな変わらないと思う。僕が体験学習を支持する大きな理由の一つです。楽しいってのも、もちろんあります。価値を目標とせよです。


それに対する直観を欠いた網羅的授業の非効率と無意味さ。言葉が酷くて、すみません。でも本当にそう思います。とてもイヤでしたし、不快だった。それで時間をかけて効果もほとんどないってね。悲劇でなくてなんでしょう。