忘れないように。スピノザドゥルーズを踏まえて、
「教育の目的として力能」という文章を書く。
「資質・能力」「生きる力」といった概念を相対化して、教育そのものを目的から捉え直す試み。教育のパタン・ランゲージは自分にとって、この力能のためにある。人格の完成も民主主義の成熟も喜び(幸せ)も力能が発揮された結果だから。法律では、人格の完成が目的とされているが、仮に人格の完成というものがあるとしても力能が先のなのです。
 
太陽は力能の象徴と言えるかも。
 
「曙の光は、
立ちのぼる時には断じて立ちのぼる」Victor Hugo
 
「あらゆる領域において生命の勝利が創造であるとすれば、芸術家や学者の創造とは違っていつでもだれにでも追求できる創造にこそ、人間の生命の存在理由があると考えるべきではないでしょうか。その創造は自分で自分を創造することであり、少ないものから多くのものを引き出し、無から何ものかを引き出し、世界の豊かなものにたえず何かを加える努力によって、人格を大きくすることであります」(渡辺秀訳、白水社ベルクソン全集第五巻』)
 
「教育はその人がそのなりうる最善のものとなり、その人が潜在的に深く蔵している本質を、現実にあらわすのを助けるべきである」(『創造的人間』佐藤三郎・佐藤全弘訳、誠信書房
 
 
「理想を高くせよ、敢て野心大ならしめよとは云はず、理想なきものの言語動作を見よ、醜陋の極なり、理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし、理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学で居る方がよし」夏目漱石
 
「学問は綱渡りや皿回しとは違う。芸を覚えるのは末のことである。人間が出来るのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る。好悪の判然する、善悪の分界を呑み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。」夏目漱石
 
「定理52 自己満足は理性から生ずることができる。そして理性から生ずるこの満足のみが、存在しる最高の満足である。」 スピノザ
 
「人から能く思われたいとか、
自分の値より以上に
高く評価されたいとかいう考えがあればこそ
怖気づくのである。
自己の値を
真価だけしか発表せぬとしたなら、
少しも怖気ることはない。 」新渡戸稲造
 
「肝要なことは、われわれ全部が、ひとりひとり各人が、より賢明になることである」(原佑・飯島宗亭「アドラーの書」、『キルゲゴールの講和・遺稿集9』所収)
一人一人が強く賢くなり、団結すれば、上に立つ人間も、威張ったり、不正をしたりできなくなる。平等の関係ができる。
 
「人がこの世界でできることは、世界を正しい方向に一インチでも動かそうとする努力だ。それができれば、人は多くのことをやり遂げたことになる」ブーバー
 
「真の賢者はつねに喜々としている」トルストイ
 
「わたしの格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして、一般に、完全にわれわれの力の範囲にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのちに成功しないものはすべて、われわれにとって絶対的に不可能ということになる。そして、わたしの手に入らないものを未来にいっさいに望まず、そうして自分を満足させるにはこの格率だけで十分に思えた。」38項、方法序説-岩波文庫-デカルト
 
 
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。
闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けとったというのだ。
しかし、その反対に、なんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」ダンマパダ
 
「私の苦悩の体験が、私の利益になる。
そのおかげで、人を助けることができるのだ」ゴーゴリ
 
「突きぬけよ!この短い言葉は、内的生活の多くの危機に、ほとんど魔術的な効果をもつものである。
 この言葉は、まだすっかり無力になっていない理性に、その権能を棄てないように諭し、あるいは、ただ肉体的なものにすぎない気分に屈してはならないことを教える。同時に、まだ残っている善き意志に刺戟を与えて、えたいの知れぬペシミズムや、肉体的または心情的な印象によわよわしく屈服することに、反撥を起させる。
 これによって、いわば一つの急激な動きが生じ、気高い魂はふたたび自由になって、真実や正しいものに向って進むことになる。
 このような瞬間は、しばしば全生涯をも決定する重大な時である。だから、もしあなたがそのような何かに縛られている感じたなら、突きぬけよ!同胞教会賛美歌三九三番、六七六番、六九八番」ヒルティ
 
「太陽よ 万歳!
 闇よ 消え去れ!」プーシキン
 
「教育の目的は、生徒の自己発展を刺激し誘導することにある」ホワイトヘッド杉本正二訳『教育の目標』万流社、1981年
 
 
 
幸福な生活(幸福)を教育の目的と牧口先生はしていたけれど、幸福な生活は力能を発揮する結果にしか存在しない。
スピノザから教育を見つめ直すとまた違った世界が出てくる。
この差はけっこう大きいと思う。もっと根元的な目的がどこにあるのか。
 
マズローの言葉だけど、その本質っていうのは力能のこと「教育はその人がそのなりうる最善のものとなり、その人が潜在的に深く蔵している本質を、現実にあらわすのを助けるべきである」(『創造的人間』佐藤三郎・佐藤全弘訳、誠信書房
 
 
なるほど、この本の帯にも教育の目的についてあるけれど、苫野さんの自由の相互承認の教育の目的論も、牧口常三郎の教育の目的論も、教育の目的を力能とであると自分はまとめます。
 

 

 

教育のパタン・ランゲージ作るときも制限しないといけないな。教科の授業を作るときの独特のパタンもある。
それはあるけれど、自分も生活(仕事)のために構成はするけれど、人に伝えるために編むものは教科を超えた教育のパタン集になると思う。
オンボーディングと
効果的なインストラクション(のパタンを構成するべきか)は繋がっている。
限定すること
オンボーディング
ここら辺の意識を重ねたほうがいいことは、
どのような教育でも重要な視点(概念/パタン)
 
学校教育を超えて、家庭での経験も含めて、社会の教育という大きな視点で考えることも大事だと思う。そうするとオンライン学習の意味が経済を原理とすることに繋がってくる。