僕は勝ち負けの土台から基本的に降りているけど、価値創造の土台から降りることもあるのだろうか。価値創造の土台から降りるという文学を読んだことがある。もしその時が来たらこの仕事をやめることになる。
よく生きる人生ではなく、ただ生きる人生となる。
 
思い出した、「バートルビー」という作品だった。
文学作品、物語は主人公の人格形成を主題にしたものが多い。バートルビーは、そういった価値を揺るがす話で、そこには、強烈な闇と光を同時に感じるものがある。
価値創造(の人格)ということ目的を絶対化して油断すると、価値創造しない人や価値創造できない人には価値がないのかという話にもなってくる。具体的にリアルでもネット上にもあの人は人材だ。あの人は人材ではない。あの人は役に立たない(価値がない)、あの人は使えないなどの言葉を見聞きすることがある(他者を目的ではなくただ手段として見ている)。
 人生には偶然的な部分があることは明白で、その人の努力もありますが、多くは環境などたまたま(偶然)健康や力に恵まれた人が、その分、できることをやればいいだけであると思うことがある。
文学作品は、他者に出会うことで、自分の価値観を問い直せるような機会となってきました。バートルビーもそうですが、登場人物を誇張化することで、人間のある側面を浮き出させます。
自分は、他者の価値創造に生かされているので、価値創造の土台から完全に降りることはないだろうと思うのですが(私も恵まれている分、できることを当たり前にしたいです。例えば人を助ける、支援する、支え合うというのは、よく生きることではなく、ただ生きること、普通のこと、当たり前ではないかとも考えます)、価値があるとかないとかいうところの落とし穴には敏感でありたいし、価値創造しなくても、ただ生きていればいい、ただ生きているだけで価値があるのだという考えも同時に持っていたいと思います。
もし価値創造の土台から降りることになれば、なんで仕事を辞めるだろうという考えに至ったのかというと、僕は教育の目的に価値創造の人格を設定しているから(価値創造が不要なら多くの教育は不要なのだ。僕自身が不能になる可能性もある)。でも、それを絶対に絶対化しないという戒めをもちたい。価値創造の人格は、教育の目的の一つにすぎないと考えた方がいいと思うが、価値(よい、わるい)が逃れるのは、難しい。価値から逃れれること、価値創造の土台から降りることはは良い悪い(価値判断)とまた価値の問題になってしまうからだ。ただバートルビーのように価値という視点の揺らぎ、その先、断絶を見つめる視点も、もちたいと思う。
友川かずきさんの良いとか悪いとか、価値があるとかないとか誰が決めたんだという歌も思い出す。
 
人がこの世に投げ出されて、この世界を知覚すると同時に自分の生命に害があるのかないのか体が感じとっている。そもそも生きている限り完全に価値から逃れることはできない。ただ宗教も提示しているところになるけれど、現世的な価値、世間的な勝ち負けや価値、そこから降りる視点、そうではない視点もあると良いのだと思う。
 
世間的な価値創造の人格が全てではない。そう考えた方がいいと思います。
こういうことかな。ただ生きるのレベルが上がっていくことが成長なのかもしれない。