第39回「SGIの日」記念提言(上)がやばかったです。
「地球革命へ価値創造の万波を」


ドトールで読みながら泣きそうになって、思わず二回熟読してしまった。心を打ちぬかれて脳みそがうわんうわんした。

今回は社会の回復力を意味する「レジリエンス」という概念を基底にした提案です。脅威を乗り越えるためのレジリエンスを高め、さらには「持続可能な地球社会」を築く上での原動力となりゆく「価値創造」の挑戦について、①常に希望から出発する価値創造、②連帯して問題解決にあたる価値創造、③自他共の善性を呼び覚ます価値創造、の三つ観点から論じられています。いつも平和提言は(上)で理論的なことが書かれていて、その理論をベースとした(下)は具体的な提案とビジョンが中心です。


ぼくが知らないだけだと思うけれど、
人類共通の普遍的なレベル、理論+具体的なビジョンをこれだけ示せる人はほとんどいないかもしれない。


高齢の恩師がこうやって変わらずに前に進まれているのに、自分はなんと情けないのか…。


その中であった話。

マララさんの言葉
「わたしのなかで変わったことなど、なにひとつありません。
 あるとすれば、一つだけ。弱さと恐怖と絶望が消え、強さと力と勇気が生まれたのです。わたしはそれまでと同じマララです。目標へ向かっていく気持ちも変わっていません。希望も、夢も、前と同じです」(マララ・ユスフザイ/クリスティーナ・ラム『わたしはマララ』金原瑞人・西田佳子、学研パブリッシング

こんな十代の若い娘が命を危険にさらしながらも挑戦しているのに、自分のことを思い浮かべて反省。


昨日アンパンマンの絵本を購入。こういった何度も読み返す価値がある良書を自分の目で読み味わいながら集めていきたい。アンパンパンには普遍的なメッセージがこめられている。正しいことはいつも楽しいだけではなくて、時には自分が傷つくこともある。でも決して悲壮的な感じはしないし、アンパンマンには勇気と自律ある。その中に「真の賢者は常に嬉々ととしている」というトルストイのがいう幸福論に通じる幸せがあるかもしれない。常に嬉々としている必要がないかもしれないそれが人間の不思議であるし強さの可能性とも言えるかもしれない。自分のできるチャレンジを続けること。


マララさんの話のところはミクロレベルの変革の話の中で出てきました。条約や法律などのようなマクロレベルの変革と一人一人のミクロレベルの成長・変革は両輪です。


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 絶望の闇に人々の心が覆われ、あきらめと無力感で立ちすくんでしまう状態が続けば、問題の解決は遠のくばかりか、同様の脅威が各地で猛威を振るう事態が繰り返されてしまうことになります。
 こうした絶望の闇を打ち払う希望の光明は、「自己目的」ではなく、「何かのため、誰かのために苦悩するときだけ」(『苦悩する人間』)輝き始めると強調したのは、第2次世界大戦に強制収容所に送られた時の壮絶な体験をつづった『夜と霧』で知られる、精神医学者のヴィクトール・E・フランクル博士でした。
 フランクル博士は、苦難に直面した時の人間精神による応戦劇の真骨頂を、次のように記しています。
「重要なのは、避けることのできない人生の運命的な打撃をどのような態度で受け止めるかである。したがって人間は、最後の息を引き取るそのときまで、生きる意味をかちとってわがものとすることができる」(以下、V・E・フランクル/F・クロイツァー『宿命を超えて、自己を超えて』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)
 博士はこの人間精神によある応戦を「態度価値」と名付けました。それは、「どのような条件、どのような状況のもとでも人生には意味がある」との思いを奮い起こし、苦難と向き合う中で、その生命の輝きが苦しみを抱えるほかの人々を勇気付ける光明となり、「自分個人の悲劇を人間の勝利に変える」道をも開く価値創造に他なりません。
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いろいろ思うところがあるけれど「態度価値」のところで、まさにここで言われるようなものを含めて広いの意味での「態度価値」をカリキュラムに組み込んで教育を試みている探究学習の文脈を思い出しました。フランクルも極限を経験しているから、だからこそ説得力があるのか。どうしても自分の仕事に引き寄せてしまうのだけど、この態度価値を明らかにすることは、子どもたちの図書環境をどうするのかと言う問題に繫がっている。



違う話。法華経の菩薩が請願する場面を取り上げて

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ここで言う「誓願」は、誰かが行動することを期待して事態の変化を待ちわびるような願望でも、状況が厳しくなった時に吹き飛んでしまうような約束でもない。どんな困難や試練が押し寄せても、どれだけ歳月や労力がかかっても、必ず成し遂げていく――自分の全存在を賭けた、”生きる証し”の異名ともいうべきものに他なりません。
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たいした困難も試練も自分にはありません、それにもともとなかったのかもしれないけれど大学生の時みたいな情熱がどこかへ行ってしまって憂鬱感に覆われがちの自分に直接言われているみたいな気持ちになりました。




釈尊十大弟子の一人がバラモンに目を求められたのでお布施として自分の目を差し出したところ、感謝の言葉がないだけではなくて、自分の目を投げ捨てられ踏み潰されたしまった。その後にその弟子が自分の悟りだけと追及するようになり心を閉ざしてしまったエピソードの話のところ。
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 日蓮大聖人はこの説話を通して、どんな人でも縁に紛動されやすいことを指摘しつつ、その負の力に打ち勝つためには、「願わくは我が弟子等・大願をおこせ」と、人々のために行動することを誓い、何が起ころうとも常にその誓いに立ち返る以外にないと訴えたのです
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このエピソードの後にアショカ大王の”魂の転劇”の話。これらのエピソードを通して善悪二元論的な思想を乗り越える視座として十界互具論について書かれている。

ほんのささいなことでやる気をなくしたり怖気づいたり自分は本当に弱い…。フランクルの話にも通じている。誓い、願い、英知を磨くは何のためかというところに立ち返っていくしかないか。